雑音まみれの信号の中から、目的の信号を最も確実に見つけ出すにはどうすればよいでしょうか?
たとえば、レーダーは電波パルスを送信し、反射波を受信して目標を検出します。しかし受信信号には熱雑音が大量に混入しており、反射波は雑音に埋もれてしまいます。このとき、ただ信号を増幅するだけでは雑音も一緒に大きくなるため、検出能力は改善しません。必要なのは、「信号成分だけを効率よく取り出し、雑音を相対的に抑えるフィルタ」です。
この問いに対する数学的に最適な答えが マッチドフィルタ(matched filter) です。マッチドフィルタは、受信信号に対してある特定の線形フィルタを適用することで、ある時刻における 信号対雑音比(SNR: Signal-to-Noise Ratio) を最大にします。この理論は1940年代に North によって体系化され、以来、信号検出理論の中心的な柱であり続けています。
マッチドフィルタの考え方を理解すると、以下のような幅広い分野で設計の本質が見えてきます。
- レーダー工学: パルス圧縮によって、長パルスのエネルギーと短パルスの距離分解能を同時に実現する仕組み
- ディジタル通信: 最適受信機がビット誤り率を最小化するメカニズム
- ソナー・超音波: 水中や材料内部の微弱な反射信号を検出する原理
- GPS受信機: 拡散符号の相関検出による衛星信号の捕捉
本記事の内容
- マッチドフィルタの直感的理解と問題設定
- シュワルツの不等式を用いた最適フィルタの導出(省略なし)
- マッチドフィルタのインパルス応答と「時間反転」の意味
- 出力SNRの計算と信号エネルギーとの関係
- 相関受信機との等価性の証明
- レーダーへの応用(パルス圧縮の原理)
- ディジタル通信への応用(最適受信機とビット誤り率)
- Pythonでのマッチドフィルタによる信号検出シミュレーションとSNR改善の可視化
前提知識
この記事を読む前に、以下の記事を読んでおくと理解が深まります。
- 畳み込み定理の導出と応用 — 畳み込みとフーリエ変換の関係
- パワースペクトル密度の理論 — 雑音の周波数特性と電力の表現
マッチドフィルタとは — 雑音の中の既知信号を最も効率よく見つけるフィルタ
日常のアナロジーで理解する
マッチドフィルタの本質を、日常的な場面で考えてみましょう。
にぎやかなカフェで友人の声を聞き取る場面を想像してください。周囲にはたくさんの雑談、食器の音、BGMが響いています。それでも、あなたは友人の声を聞き分けることができます。なぜなら、あなたの脳は友人の声の特徴(周波数パターン、話し方のリズム、声質)をすでに知っており、その「テンプレート」と入力音声を照合しているからです。友人の声に似た成分を強調し、それ以外の雑音を相対的に弱める — これがまさにマッチドフィルタの発想です。
重要なのは、この照合が「テンプレートを知っている」からこそ可能だという点です。マッチドフィルタは 既知の信号波形 がある場合に適用できるフィルタであり、送信波形が事前にわかっているレーダーや通信システムでこそ威力を発揮します。
技術的な定義
マッチドフィルタとは、加法性白色ガウス雑音(AWGN)中の既知信号を検出する際に、ある特定の時刻における出力SNRを最大化する線形時不変フィルタです。
ここで、マッチドフィルタが要求する条件を整理すると次のようになります。
- 検出したい信号の波形が既知であること
- 雑音が加法的で白色(全周波数で一様なパワースペクトル密度)であること
- フィルタは線形時不変(LTI)であること
これらの条件が満たされるとき、SNRを最大化するフィルタの形が一意に決まります。その導出には、数学の強力な道具である シュワルツの不等式 を使います。
では、まず問題を数式で正確に定式化するところから始めましょう。
問題設定 — 既知信号と白色ガウス雑音
受信信号モデル
レーダーや通信の受信機に入ってくる信号を数学的にモデル化します。受信信号 $x(t)$ は、既知の信号 $s(t)$ と加法性白色ガウス雑音 $n(t)$ の和で表されます。
$$ x(t) = s(t) + n(t) $$
ここで、各成分の性質を明確にしておきましょう。
- $s(t)$: 既知の有限エネルギー信号。持続時間は有限で、信号エネルギーは $E = \int_{-\infty}^{\infty} |s(t)|^2 \, dt < \infty$
- $n(t)$: 平均ゼロの白色ガウス雑音。パワースペクトル密度は全周波数にわたって一定で $S_n(f) = \frac{N_0}{2}$
白色雑音のパワースペクトル密度が $N_0 / 2$ で一定であるということは、どの周波数帯にも同じ強さの雑音成分が含まれていることを意味します。光で言えば「白色光」がすべての色(周波数)を均等に含んでいるのと同じ発想で、「白色」雑音と名付けられています。
フィルタの出力
この受信信号 $x(t)$ をインパルス応答 $h(t)$ の線形フィルタに通すと、出力 $y(t)$ は畳み込みで表されます。
$$ y(t) = \int_{-\infty}^{\infty} h(\tau) \, x(t – \tau) \, d\tau $$
フィルタの出力は、信号成分に対する応答 $y_s(t)$ と雑音成分に対する応答 $y_n(t)$ に分離できます。
$$ y(t) = y_s(t) + y_n(t) $$
ここで、信号成分の出力は次のとおりです。
$$ y_s(t) = \int_{-\infty}^{\infty} h(\tau) \, s(t – \tau) \, d\tau $$
雑音成分の出力も同様の畳み込みですが、$n(t)$ は確率過程なので、出力雑音は平均パワーで評価します。
目標の定式化
我々の目標は、ある特定の時刻 $t = t_0$ における出力SNR を最大化する $h(t)$ を求めることです。
出力SNRは、時刻 $t_0$ における信号出力のピーク電力と、雑音出力の平均電力の比として定義されます。
$$ \text{SNR}_\text{out} = \frac{|y_s(t_0)|^2}{E[|y_n(t_0)|^2]} $$
分子は信号が完全にわかっているので確定値の二乗、分母は雑音出力の平均電力(期待値)です。
この最適化問題を解くには、分子と分母をそれぞれフーリエ変換を使って周波数領域で表現すると見通しが良くなります。次のセクションで、いよいよシュワルツの不等式を武器に最適フィルタを導出していきます。
シュワルツの不等式によるマッチドフィルタの導出
出力SNRを周波数領域で表す
導出のゴールを明確にしておきましょう。出力SNRを $h(t)$(あるいは周波数領域で $H(f)$)の汎関数として表し、それを最大化する $H(f)$ の形を決定することが目標です。
まず、フィルタの周波数応答を $H(f)$、信号のスペクトルを $S(f)$ とします。フーリエ変換の畳み込み定理から、信号出力のスペクトルは $H(f) S(f)$ です。
時刻 $t_0$ における信号出力は、フーリエ逆変換によって次のように書けます。
$$ y_s(t_0) = \int_{-\infty}^{\infty} H(f) \, S(f) \, e^{j 2\pi f t_0} \, df $$
次に、雑音出力の平均電力を求めます。白色雑音 $n(t)$ のパワースペクトル密度が $S_n(f) = N_0/2$ なので、フィルタ出力雑音のパワースペクトル密度は $|H(f)|^2 \cdot S_n(f)$ です。出力雑音の平均電力は、これを全周波数にわたって積分したものになります。
$$ E[|y_n(t)|^2] = \int_{-\infty}^{\infty} |H(f)|^2 \, S_n(f) \, df = \frac{N_0}{2} \int_{-\infty}^{\infty} |H(f)|^2 \, df $$
これは時刻 $t$ によらない定数であることに注意してください。白色雑音を線形フィルタに通した出力は定常過程なので、平均電力は時間に依存しません。
以上から、出力SNRは次のように表されます。
$$ \text{SNR}_\text{out} = \frac{\left| \displaystyle\int_{-\infty}^{\infty} H(f) \, S(f) \, e^{j 2\pi f t_0} \, df \right|^2}{\dfrac{N_0}{2} \displaystyle\int_{-\infty}^{\infty} |H(f)|^2 \, df} $$
この式は、フィルタの周波数応答 $H(f)$ に関する汎関数です。分子は $H(f)$ と $S(f) e^{j 2\pi f t_0}$ の内積の絶対値の二乗、分母は $H(f)$ のノルムの二乗に比例しています。この構造を見て、シュワルツの不等式が使えることに気づくのがこの導出の核心です。
シュワルツの不等式
ここで、導出の鍵となるシュワルツの不等式を確認しておきましょう。2つの複素関数 $A(f)$ と $B(f)$ に対して、次の不等式が成り立ちます。
$$ \left| \int_{-\infty}^{\infty} A(f) \, B(f) \, df \right|^2 \leq \int_{-\infty}^{\infty} |A(f)|^2 \, df \cdot \int_{-\infty}^{\infty} |B(f)|^2 \, df $$
等号が成立するのは、$A(f) = k \, B^*(f)$($k$ は任意の複素定数、$^*$ は複素共役)のとき、かつそのときに限ります。
この不等式は、ベクトルの内積における「内積の絶対値はノルムの積以下」というコーシー・シュワルツの不等式の関数空間版です。有限次元ベクトルで $|\langle \bm{a}, \bm{b} \rangle|^2 \leq \|\bm{a}\|^2 \|\bm{b}\|^2$ が成り立つのと同じ構造が、関数の積分にも成り立つわけです。
SNRの上界を求める
出力SNRの分子にシュワルツの不等式を適用します。$A(f) = H(f)$、$B(f) = S(f) \, e^{j 2\pi f t_0}$ と置くと、分子は次のように上界が得られます。
$$ \left| \int_{-\infty}^{\infty} H(f) \, S(f) \, e^{j 2\pi f t_0} \, df \right|^2 \leq \int_{-\infty}^{\infty} |H(f)|^2 \, df \cdot \int_{-\infty}^{\infty} |S(f)|^2 \, df $$
右辺の第2因子で $|e^{j 2\pi f t_0}|^2 = 1$ を使っていることに注意してください。複素指数関数の絶対値は常に1なので、$|B(f)|^2 = |S(f)|^2$ となります。
この不等式を出力SNRの式に代入すると、次の上界が得られます。
$$ \text{SNR}_\text{out} \leq \frac{\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty} |H(f)|^2 \, df \cdot \int_{-\infty}^{\infty} |S(f)|^2 \, df}{\dfrac{N_0}{2} \displaystyle\int_{-\infty}^{\infty} |H(f)|^2 \, df} $$
分子と分母に共通して現れる $\int |H(f)|^2 \, df$ が約分されます。
$$ \text{SNR}_\text{out} \leq \frac{\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty} |S(f)|^2 \, df}{\dfrac{N_0}{2}} = \frac{2}{N_0} \int_{-\infty}^{\infty} |S(f)|^2 \, df $$
ここでパーセバルの定理を適用します。パーセバルの定理によれば、時間領域での信号エネルギーと周波数領域でのエネルギーは等しいので、次が成り立ちます。
$$ \int_{-\infty}^{\infty} |S(f)|^2 \, df = \int_{-\infty}^{\infty} |s(t)|^2 \, dt = E $$
したがって、出力SNRの上界は次のようにきわめてシンプルな形にまとまります。
$$ \boxed{\text{SNR}_\text{out} \leq \frac{2E}{N_0}} $$
この結果は驚くべきことを示しています。出力SNRの最大値は、信号エネルギー $E$ と雑音のパワースペクトル密度 $N_0/2$ だけで決まり、信号の波形には依存しないのです。矩形パルスでもガウスパルスでもチャープ信号でも、エネルギーが同じなら達成可能な最大SNRは同じです。
最適フィルタの決定
SNRが上界に達する(等号が成立する)条件は、シュワルツの不等式の等号条件です。
$$ H(f) = k \, B^*(f) = k \, S^*(f) \, e^{-j 2\pi f t_0} $$
定数 $k$ はSNRの値に影響しない(分子分母で打ち消される)ので、$k = 1$ と置いて差し支えありません。
$$ \boxed{H_\text{opt}(f) = S^*(f) \, e^{-j 2\pi f t_0}} $$
これが マッチドフィルタの周波数応答 です。フィルタの周波数応答は、送信信号のスペクトルの複素共役に、時間遅延に対応する位相項 $e^{-j 2\pi f t_0}$ をかけたものとなります。
この結果の意味を2つの観点から読み解きましょう。
- 振幅特性: $|H_\text{opt}(f)| = |S(f)|$ ですから、フィルタは信号のスペクトルが大きい周波数帯を強く通し、信号成分が少ない周波数帯を弱く通します。信号のパワーが集中している周波数を優先的に拾い、雑音しかいない周波数をカットするという、直感に合った振る舞いです。
- 位相特性: フィルタの位相は、信号の位相を打ち消して全周波数成分を時刻 $t_0$ で一斉に揃えます。これにより、時刻 $t_0$ で各周波数成分が「建設的に干渉」し、ピーク値が最大化されます。
振幅でエネルギーを最大限に集め、位相でタイミングを揃える — この二重の最適化がマッチドフィルタの本質です。
次に、この周波数領域の結果を時間領域に戻し、マッチドフィルタのインパルス応答の物理的意味を考察しましょう。
マッチドフィルタのインパルス応答 — 送信信号の時間反転
周波数領域から時間領域へ
マッチドフィルタの周波数応答 $H_\text{opt}(f) = S^*(f) \, e^{-j 2\pi f t_0}$ を逆フーリエ変換して、インパルス応答 $h_\text{opt}(t)$ を求めましょう。
まず、実信号 $s(t)$ に対しては $S^*(f) = S(-f)$ が成り立ちます(実関数のフーリエ変換の性質)。フーリエ変換の性質を順に使っていきます。
$S(-f)$ の逆フーリエ変換は $s(-t)$ です。これはフーリエ変換の時間反転の性質から直ちにわかります。
$$ \mathcal{F}^{-1}[S(-f)] = s(-t) $$
次に、$e^{-j 2\pi f t_0}$ の掛け算は、フーリエ変換の時間シフト定理から、時間領域での $t_0$ だけの遅延に対応します。
$$ \mathcal{F}^{-1}[S(-f) \, e^{-j 2\pi f t_0}] = s(-(t – t_0)) = s(t_0 – t) $$
したがって、マッチドフィルタのインパルス応答は次のとおりです。
$$ \boxed{h_\text{opt}(t) = s(t_0 – t)} $$
この結果は非常に直感的です。マッチドフィルタのインパルス応答は、送信信号 $s(t)$ を時間反転して $t_0$ だけシフトしたものです。信号波形を「鏡に映した」形がフィルタの形になるわけです。
時間反転の直感的理解
なぜ時間反転が最適なのでしょうか? 畳み込みの操作を思い出すと理解できます。
畳み込みの計算では、インパルス応答 $h(\tau)$ を時間反転して $h(-\tau)$ とし、入力信号 $x(t-\tau)$ に沿ってスライドさせながら掛け算・積分します。もしインパルス応答が $s(t_0 – t)$ であれば、反転した $h(-\tau) = s(t_0 + \tau)$ が、$x(t – \tau)$ に含まれる $s(t – \tau)$ と畳み込み時に「ぴったり重なる」瞬間が $t = t_0$ で訪れます。
別の言い方をすれば、畳み込みの中身は次の積分です。
$$ y_s(t) = \int_{-\infty}^{\infty} s(t_0 – \tau) \, s(t – \tau) \, d\tau $$
$t = t_0$ のとき、これは次のようになります。
$$ y_s(t_0) = \int_{-\infty}^{\infty} s(t_0 – \tau) \, s(t_0 – \tau) \, d\tau = \int_{-\infty}^{\infty} |s(t_0 – \tau)|^2 \, d\tau = E $$
つまり、マッチドフィルタの出力は、判定時刻 $t_0$ で信号エネルギー $E$ そのものに等しくなるのです。被積分関数が $|s|^2$ で常に非負であるため、信号のすべての成分が正の方向に足し合わされ、打ち消しが一切起きません。これが出力ピークを最大化する仕組みです。
因果性について
理論的に導出された $h_\text{opt}(t) = s(t_0 – t)$ をそのまま実装する場合、$t_0$ を十分に大きくとれば $t < 0$ で $h(t) = 0$ となり、因果的フィルタとして実現できます。実用上は $t_0$ を信号の持続時間 $T$ 以上に設定します($t_0 \geq T$)。$t_0$ が単に出力のピーク時刻を遅らせるだけであり、検出性能には影響しないため、必要な遅延を加えることに問題はありません。
ここまでで、マッチドフィルタの最適なインパルス応答が「信号の時間反転」であることがわかりました。次に、この最適フィルタが実際にどれだけのSNR改善をもたらすかを定量的に見ていきましょう。
出力SNRの計算
最大出力SNRの再確認
導出のセクションで得た結果を整理します。マッチドフィルタを用いたときの出力SNRの最大値は次の式で与えられます。
$$ \text{SNR}_\text{out, max} = \frac{2E}{N_0} $$
ここで $E$ は信号エネルギー、$N_0/2$ は白色雑音の両側パワースペクトル密度です。
この式が意味することを掘り下げましょう。
信号波形への非依存性: 矩形パルス、三角パルス、ガウスパルス、チャープ信号 — どんな波形でも、エネルギーが同じなら最大SNRは同じです。これは波形設計の自由度を意味します。SNRを最大化するだけならどんな波形でもよいため、波形の選択は「距離分解能を上げたい」「ドップラー耐性を持たせたい」など、SNR以外の要件で決められます。
エネルギーとの比例関係: 出力SNRは信号エネルギーに線形に比例します。信号エネルギーを2倍にすれば出力SNRも2倍(3 dB改善)です。信号エネルギーはパルス振幅の二乗×持続時間 $E = \int |s(t)|^2 dt$ ですから、パルスを長くしてもエネルギーは増やせます。
入力SNRとの比較
マッチドフィルタがもたらすSNR改善を定量化するために、フィルタを通す前の入力SNRと比較してみましょう。
入力信号のピーク瞬時電力を $|s_\text{peak}|^2$、帯域幅 $W$ の雑音電力を $N_0 W$ とすると、入力SNRの目安は次のように書けます。
$$ \text{SNR}_\text{in} \sim \frac{|s_\text{peak}|^2}{N_0 W} $$
一方、マッチドフィルタの出力SNRは $2E/N_0$ です。処理利得(SNRの改善量)は次のようになります。
$$ G = \frac{\text{SNR}_\text{out}}{\text{SNR}_\text{in}} \sim \frac{2E \cdot W}{|s_\text{peak}|^2} $$
たとえば持続時間 $T$、帯域幅 $W$ の信号であれば、時間帯域幅積 $TW$ 程度のSNR改善が得られます。レーダーのチャープパルスでは $TW$ が数百から数千にもなるため、マッチドフィルタによって劇的なSNR改善が実現できるわけです。
具体的な数値例
具体例で感覚をつかみましょう。パルス幅 $T = 10\,\mu\text{s}$、振幅 $A = 1\,\text{V}$ の矩形パルスを考えます。
信号エネルギーは次のとおりです。
$$ E = A^2 T = 1^2 \times 10 \times 10^{-6} = 10\,\mu\text{J} $$
雑音のパワースペクトル密度を $N_0/2 = 5 \times 10^{-7}\,\text{W/Hz}$(すなわち $N_0 = 10^{-6}\,\text{W/Hz}$)とすると、最大出力SNRは次のようになります。
$$ \text{SNR}_\text{out, max} = \frac{2E}{N_0} = \frac{2 \times 10 \times 10^{-6}}{10^{-6}} = 20 \quad (= 13\,\text{dB}) $$
この結果は、信号エネルギーと雑音電力密度の比だけで決まっており、パルスの形状(矩形か否か)には依存していません。
では、マッチドフィルタは実装上どのような形をとるのでしょうか? 実は、相関演算という非常に身近な操作と本質的に同じであることが示せます。次のセクションでその等価性を証明しましょう。
相関受信機との等価性
相関受信機とは
マッチドフィルタと同じ処理を別の観点から実現するのが 相関受信機(correlator receiver) です。相関受信機は、受信信号 $x(t)$ と既知のテンプレート信号 $s(t)$ の 相互相関 を計算します。
$$ z(t_0) = \int_{-\infty}^{\infty} x(t) \, s(t) \, dt $$
ここでは $t_0$ の判定時刻を考えて、信号が $[0, T]$ に存在する場合を想定すると次のようになります。
$$ z = \int_0^T x(t) \, s(t) \, dt $$
受信信号に対して既知の波形を「掛け算して積分する」— これが相関演算です。
マッチドフィルタ出力と相関出力の等価性
マッチドフィルタの出力 $y(t_0)$ と相関受信機の出力 $z$ が等しいことを示しましょう。
マッチドフィルタの出力は畳み込みで表されます。$h(t) = s(t_0 – t)$ を使うと、判定時刻 $t = t_0$ での出力は次のとおりです。
$$ y(t_0) = \int_{-\infty}^{\infty} h(\tau) \, x(t_0 – \tau) \, d\tau $$
$h(\tau) = s(t_0 – \tau)$ を代入します。
$$ y(t_0) = \int_{-\infty}^{\infty} s(t_0 – \tau) \, x(t_0 – \tau) \, d\tau $$
ここで $u = t_0 – \tau$ と変数変換します。$\tau = t_0 – u$、$d\tau = -du$ で、$\tau: -\infty \to \infty$ のとき $u: \infty \to -\infty$ となります。
$$ y(t_0) = \int_{\infty}^{-\infty} s(u) \, x(u) \, (-du) = \int_{-\infty}^{\infty} s(u) \, x(u) \, du $$
これはまさに相関受信機の出力 $z$ に他なりません。
$$ \boxed{y(t_0) = \int_{-\infty}^{\infty} s(t) \, x(t) \, dt = z} $$
2つの実装の比較
マッチドフィルタと相関受信機は数学的に等価ですが、実装上の特性は異なります。
マッチドフィルタ(畳み込み型): – フィルタ係数を一度設定すれば、入力信号を連続的にフィルタリングできる – ハードウェア実装(SAWフィルタ、FPGAなど)に適している – 出力の時間波形全体が得られるため、ピークの検出タイミングを自動的に決定できる
相関受信機(積分型): – テンプレート信号と受信信号の積を積分する – ディジタル処理(DSPやソフトウェア)で実装しやすい – 積分区間を明示的に設定する必要がある
どちらを選ぶかは実装の文脈次第ですが、最適性は同一です。
ここまでで、マッチドフィルタの理論的基盤が整いました。次に、この理論がどのように実際の工学システムで活用されているかを、レーダーとディジタル通信の2つの応用例で見ていきましょう。
レーダーへの応用 — パルス圧縮
レーダーのジレンマ
レーダー工学には古典的な ジレンマ があります。
- 検出距離を伸ばしたい → パルスエネルギーを大きくする必要がある → パルスを長くしたい
- 距離分解能を上げたい → パルス幅を短くする必要がある
この2つの要求は矛盾します。長いパルスはエネルギーが大きいので遠くの目標を検出できますが、距離分解能が悪化します。短いパルスは距離分解能が良いですが、エネルギーが小さいので遠くの目標を見落とします。パルスの振幅を上げれば短いパルスでもエネルギーを確保できますが、送信機のピーク電力には物理的な限界があります。
パルス圧縮による解決
この矛盾を解消するのが パルス圧縮(pulse compression) です。送信時には長いパルス(高エネルギー)を使い、受信時にマッチドフィルタで処理することで、出力を短い圧縮パルスに変換します。
典型的な例がリニアFMチャープ信号です。持続時間 $T$、帯域幅 $B$ のチャープ信号 $s(t)$ は次のように表されます。
$$ s(t) = A \cos\!\left(2\pi f_0 t + \pi \frac{B}{T} t^2\right), \quad 0 \leq t \leq T $$
この信号の瞬時周波数は $f_0$ から $f_0 + B$ まで線形に変化します。「チャープ(chirp)」とは小鳥のさえずりのように周波数が時間とともに変化する音のことで、そこから名付けられています。
チャープ信号のエネルギーは $E = A^2 T / 2$ で、パルス幅 $T$ に比例します。一方、帯域幅は $B$ です。
このチャープ信号をマッチドフィルタに通すと、出力は自己相関関数 $R(\tau)$ となります。チャープ信号の自己相関関数は、近似的に次のsinc関数で表されます。
$$ R(\tau) \approx E \cdot \text{sinc}(B\tau) $$
sinc関数のメインローブの幅は約 $1/B$ です。つまり、マッチドフィルタの出力パルスの実効的な幅は $1/B$ に圧縮されます。
元の送信パルスの幅 $T$ が圧縮後に $1/B$ になるので、パルス圧縮比は次のとおりです。
$$ \text{圧縮比} = \frac{T}{1/B} = TB $$
時間帯域幅積 $TB$ は、パルス圧縮の性能を表す最も重要なパラメータです。例えば $T = 100\,\mu\text{s}$、$B = 10\,\text{MHz}$ のチャープでは $TB = 1000$ となり、出力パルス幅は送信パルスの1000分の1に圧縮されます。
SNR改善の観点
パルス圧縮はSNRの観点でも大きな利得をもたらします。マッチドフィルタの出力SNRは $2E/N_0$ で、信号エネルギー $E = A^2 T / 2$ に比例します。長いパルスを使うことでエネルギーが確保され、マッチドフィルタによってそのエネルギーが時間的に集中されるのです。
パルス圧縮前のSNR(帯域幅 $B$ 内の雑音に対するパルスのピーク電力比)は $A^2 / (N_0 B)$ 程度です。パルス圧縮後のSNRは $A^2 T / N_0$ ですから、処理利得は次のようになります。
$$ G_\text{PC} = TB $$
$TB = 1000$ なら $10 \log_{10}(1000) = 30\,\text{dB}$ のSNR改善です。これは、同じ距離分解能を無変調の短パルスで達成する場合と比べて、送信ピーク電力を1000分の1に抑えられることを意味します。
マッチドフィルタの威力がレーダーで特に顕著であることがわかりました。次は、もう一つの重要な応用であるディジタル通信での役割を見ていきましょう。
ディジタル通信への応用 — 最適受信機
AWGN通信路の最適検出
ディジタル通信では、送信側が有限個の既知波形(たとえばビット「0」に $s_0(t)$、ビット「1」に $s_1(t)$)の中から1つを選んで送信し、受信側はAWGN通信路を通った信号から送信されたビットを判定します。
マッチドフィルタの理論は、この判定問題の核心にあります。受信機は各シンボル波形に対応するマッチドフィルタを用意し、その出力(十分統計量)を比較して、出力が最大のシンボルを選択します。
二値通信の場合
最も単純な二値の場合を考えましょう。ビット「1」のとき $s(t)$、ビット「0」のとき $-s(t)$ を送信する BPSK(Binary Phase Shift Keying)を例にとります。
受信信号は次のいずれかです。
$$ x(t) = \begin{cases} +s(t) + n(t) & (\text{ビット 1 が送信された}) \\ -s(t) + n(t) & (\text{ビット 0 が送信された}) \end{cases} $$
受信機は $s(t)$ のマッチドフィルタを通し、判定時刻 $t_0$ での出力 $y(t_0)$ の正負で判定します。
- $y(t_0) > 0$ → ビット「1」と判定
- $y(t_0) < 0$ → ビット「0」と判定
ビット誤り率との関係
マッチドフィルタ出力は、ビット「1」が送信された場合 $y(t_0) = E + n_\text{out}$、ビット「0」が送信された場合 $y(t_0) = -E + n_\text{out}$ となります($n_\text{out}$ はフィルタ出力の雑音成分)。
出力雑音 $n_\text{out}$ は平均ゼロ、分散 $\sigma^2 = N_0 E / 2$ のガウス分布に従います。ビット誤り率(BER)は、この雑音が信号間の距離 $2E$ の半分を超える確率です。
$$ \text{BER} = Q\!\left(\sqrt{\frac{2E_b}{N_0}}\right) $$
ここで $E_b$ は1ビットあたりの信号エネルギー、$Q(\cdot)$ はQ関数(ガウス分布の上側確率)です。
この式が示すのは、マッチドフィルタを使えば AWGN 通信路での BER は $E_b/N_0$ だけで決まるということです。そして、線形フィルタの中でマッチドフィルタが最小の BER を達成する — つまり最適受信機なのです。
これはレーダーでの結論と本質的に同じ構造です。マッチドフィルタは信号エネルギーを最も効率よく集めるフィルタであり、その結果としてSNRが最大化され、検出確率が最大化(誤り率が最小化)されます。
理論の応用を2つ見てきました。いよいよ、ここまでの理論をPythonで実装し、マッチドフィルタの効果を数値的に確認しましょう。
Pythonによるマッチドフィルタのシミュレーション
シミュレーション1: 矩形パルスの検出
まず、最も基本的なケースとして、白色ガウス雑音に埋もれた矩形パルスをマッチドフィルタで検出するシミュレーションを行います。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
# --- パラメータ設定 ---
fs = 10000 # サンプリング周波数 [Hz]
T_pulse = 0.01 # パルス幅 [s]
A = 1.0 # パルス振幅
t_delay = 0.05 # パルスの開始時刻 [s]
T_total = 0.1 # 観測時間 [s]
N0_half = 0.5 # 雑音の片側PSD: N0/2
# --- 時間軸 ---
N_total = int(T_total * fs)
t = np.arange(N_total) / fs
# --- 送信信号(矩形パルス) ---
s_template = np.zeros(N_total)
n_start = int(t_delay * fs)
n_pulse = int(T_pulse * fs)
s_template[n_start:n_start + n_pulse] = A
# --- 白色ガウス雑音 ---
# 離散時間での雑音分散: sigma^2 = N0/2 * fs
noise_var = N0_half * fs
noise = np.random.randn(N_total) * np.sqrt(noise_var)
# --- 受信信号 ---
x = s_template + noise
# --- マッチドフィルタ(テンプレートの時間反転) ---
s_ref = A * np.ones(n_pulse) # パルス波形
h_mf = s_ref[::-1] # 時間反転(矩形なので同じ形)
# --- フィルタリング(畳み込み) ---
y = np.convolve(x, h_mf, mode='full')[:N_total] / fs
# --- 可視化 ---
fig, axes = plt.subplots(3, 1, figsize=(10, 8), sharex=True)
axes[0].plot(t * 1000, s_template, color='#00d4ff', linewidth=1.5)
axes[0].set_ylabel('Amplitude')
axes[0].set_title('Transmitted Signal s(t)')
axes[0].set_ylim(-0.5, 1.5)
axes[1].plot(t * 1000, x, color='#888888', linewidth=0.5, alpha=0.8)
axes[1].set_ylabel('Amplitude')
axes[1].set_title('Received Signal x(t) = s(t) + n(t)')
axes[2].plot(t * 1000, y, color='#ff6b6b', linewidth=1.5)
axes[2].axvline((t_delay + T_pulse) * 1000, color='#00d4ff',
linestyle='--', label=f'Expected peak at {(t_delay + T_pulse)*1000:.0f} ms')
axes[2].set_ylabel('Output')
axes[2].set_title('Matched Filter Output y(t)')
axes[2].set_xlabel('Time [ms]')
axes[2].legend()
plt.tight_layout()
plt.show()
上のグラフから、マッチドフィルタの効果が明確に読み取れます。
- 1段目(送信信号): 矩形パルスが $t = 50\,\text{ms}$ に存在しています。これが検出したい信号です。
- 2段目(受信信号): パルスは雑音に完全に埋もれており、目視では信号の存在を確認できません。雑音振幅が信号振幅を大きく上回っているためです。
- 3段目(マッチドフィルタ出力): 雑音の中から信号が明瞭なピークとして浮かび上がっています。ピーク位置は $t = 60\,\text{ms}$(パルス終了時刻)であり、理論的な予測(パルス開始 + パルス幅 = 判定時刻)と一致しています。マッチドフィルタが雑音を効果的に抑圧し、信号成分のみを増強していることがわかります。
シミュレーション2: チャープ信号のパルス圧縮
次に、レーダーで使われるリニアFMチャープ信号のパルス圧縮を実装します。長いチャープパルスがマッチドフィルタによって短い圧縮パルスに変換される様子を確認しましょう。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
# --- パラメータ設定 ---
fs = 200000 # サンプリング周波数 [Hz]
T_chirp = 0.005 # チャープパルス幅 [s]
B = 20000 # 帯域幅 [Hz]
f0 = 10000 # 開始周波数 [Hz]
A = 1.0 # 振幅
t_delay = 0.01 # パルス開始時刻 [s]
T_total = 0.03 # 観測時間 [s]
N0_half = 2.0 # 雑音の片側PSD
# 時間帯域幅積
TB = T_chirp * B
print(f"時間帯域幅積 TB = {TB:.0f}")
print(f"パルス圧縮比 = {TB:.0f}")
print(f"処理利得 = {10 * np.log10(TB):.1f} dB")
# --- 時間軸 ---
N_total = int(T_total * fs)
t = np.arange(N_total) / fs
# --- チャープ信号の生成 ---
n_chirp = int(T_chirp * fs)
t_chirp = np.arange(n_chirp) / fs
chirp_rate = B / T_chirp # チャープ率 [Hz/s]
s_chirp = A * np.cos(2 * np.pi * (f0 * t_chirp + 0.5 * chirp_rate * t_chirp**2))
# --- 送信信号配置 ---
s_full = np.zeros(N_total)
n_start = int(t_delay * fs)
s_full[n_start:n_start + n_chirp] = s_chirp
# --- 白色ガウス雑音 ---
noise_var = N0_half * fs
noise = np.random.randn(N_total) * np.sqrt(noise_var)
# --- 受信信号 ---
x = s_full + noise
# --- マッチドフィルタ ---
h_mf = s_chirp[::-1]
y = np.convolve(x, h_mf, mode='full')[:N_total] / fs
# --- 可視化 ---
fig, axes = plt.subplots(4, 1, figsize=(10, 10), sharex=False)
# チャープ信号の波形
axes[0].plot(t_chirp * 1000, s_chirp, color='#00d4ff', linewidth=0.8)
axes[0].set_xlabel('Time [ms]')
axes[0].set_ylabel('Amplitude')
axes[0].set_title(f'Chirp Signal (T={T_chirp*1000:.0f} ms, B={B/1000:.0f} kHz, TB={TB:.0f})')
# 受信信号
axes[1].plot(t * 1000, x, color='#888888', linewidth=0.3, alpha=0.7)
axes[1].set_xlabel('Time [ms]')
axes[1].set_ylabel('Amplitude')
axes[1].set_title('Received Signal x(t) = s(t) + n(t)')
# マッチドフィルタ出力
axes[2].plot(t * 1000, y, color='#ff6b6b', linewidth=1.0)
axes[2].set_xlabel('Time [ms]')
axes[2].set_ylabel('Output')
axes[2].set_title('Matched Filter Output (Pulse Compression)')
# 出力の拡大(ピーク付近)
peak_idx = np.argmax(np.abs(y))
peak_time = peak_idx / fs
half_window = 0.002 # ±2 ms
idx_lo = max(0, int((peak_time - half_window) * fs))
idx_hi = min(N_total, int((peak_time + half_window) * fs))
t_zoom = t[idx_lo:idx_hi]
y_zoom = y[idx_lo:idx_hi]
axes[3].plot(t_zoom * 1000, y_zoom, color='#ff6b6b', linewidth=1.5)
axes[3].set_xlabel('Time [ms]')
axes[3].set_ylabel('Output')
axes[3].set_title('Zoomed Matched Filter Output (around peak)')
axes[3].axhline(0, color='white', linewidth=0.5, alpha=0.3)
# 圧縮パルス幅の目安
compressed_width = 1.0 / B
axes[3].annotate(f'Compressed width ≈ 1/B = {compressed_width*1e6:.0f} μs',
xy=(peak_time * 1000, y[peak_idx]),
xytext=(peak_time * 1000 + 0.5, y[peak_idx] * 0.7),
arrowprops=dict(arrowstyle='->', color='#00d4ff'),
color='#00d4ff', fontsize=10)
plt.tight_layout()
plt.show()
上のグラフから、パルス圧縮の効果が視覚的に確認できます。
- 1段目(チャープ信号): 持続時間5 msのリニアFMチャープです。周波数が時間とともに線形に増加しているため、波形の「密度」が右に行くほど高くなっています。
- 2段目(受信信号): チャープ信号が強い雑音に埋もれており、信号の存在が目視では判別困難です。
- 3段目(マッチドフィルタ出力): 長い5 msのチャープが鋭いピークに圧縮されています。ピークの位置はチャープの終了時刻付近に現れ、理論どおりです。
- 4段目(ピーク拡大): 圧縮パルスの幅は約 $1/B = 50\,\mu\text{s}$ であり、元のパルス幅 $5\,\text{ms}$ から $TB = 100$ 倍に圧縮されています。メインローブの両側にはサイドローブが見えますが、これはsinc関数の特性に由来するものです。
シミュレーション3: SNR改善の定量的検証
最後に、入力SNRとマッチドフィルタ後の出力SNRを定量的に比較し、理論値 $2E/N_0$ との一致を確認しましょう。多数のモンテカルロ試行で統計的に検証します。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
# --- パラメータ設定 ---
fs = 10000
T_pulse = 0.01
A = 1.0
t_delay = 0.03
T_total = 0.08
n_pulse = int(T_pulse * fs)
# テンプレート信号
s_ref = A * np.ones(n_pulse)
h_mf = s_ref[::-1]
# 信号エネルギー
E = A**2 * T_pulse
print(f"信号エネルギー E = {E:.4f} J")
# 複数の雑音レベルでSNR改善を検証
N0_values = np.logspace(-4, 0, 20) # N0: 0.0001 ~ 1
n_trials = 500
snr_out_measured = np.zeros(len(N0_values))
snr_out_theory = np.zeros(len(N0_values))
N_total = int(T_total * fs)
n_start = int(t_delay * fs)
for i, N0 in enumerate(N0_values):
N0_half = N0 / 2
noise_var = N0_half * fs
peak_signal_vals = []
peak_noise_vals = []
for _ in range(n_trials):
# 雑音のみ(信号なし)
noise_only = np.random.randn(N_total) * np.sqrt(noise_var)
y_noise = np.convolve(noise_only, h_mf, mode='full')[:N_total] / fs
peak_idx = n_start + n_pulse - 1
peak_noise_vals.append(y_noise[peak_idx])
# 信号+雑音
s_full = np.zeros(N_total)
s_full[n_start:n_start + n_pulse] = A
x = s_full + np.random.randn(N_total) * np.sqrt(noise_var)
y = np.convolve(x, h_mf, mode='full')[:N_total] / fs
peak_signal_vals.append(y[peak_idx])
# 出力SNR = (信号出力の平均)^2 / (雑音出力の分散)
mean_signal = np.mean(peak_signal_vals)
var_noise = np.var(peak_noise_vals)
snr_out_measured[i] = mean_signal**2 / var_noise if var_noise > 0 else 0
snr_out_theory[i] = 2 * E / N0
# --- 可視化 ---
fig, ax = plt.subplots(figsize=(9, 6))
ax.plot(10 * np.log10(snr_out_theory), 10 * np.log10(snr_out_theory),
'k--', linewidth=2, label='Theory: 2E/N₀')
ax.scatter(10 * np.log10(snr_out_theory), 10 * np.log10(snr_out_measured),
color='#ff6b6b', s=60, zorder=5, label='Monte Carlo simulation')
ax.set_xlabel('Theoretical Output SNR [dB]', fontsize=12)
ax.set_ylabel('Measured Output SNR [dB]', fontsize=12)
ax.set_title('Matched Filter Output SNR: Theory vs Simulation', fontsize=13)
ax.legend(fontsize=11)
ax.grid(True, alpha=0.3)
ax.set_aspect('equal')
plt.tight_layout()
plt.show()
上のグラフから、マッチドフィルタの出力SNRに関する理論と実験の一致が確認できます。
- 理論値との良好な一致: 赤い点(モンテカルロシミュレーション結果)が黒の破線(理論値 $2E/N_0$)の上にほぼ重なっています。これは、シュワルツの不等式から導出した出力SNRの理論式がシミュレーションで裏付けられたことを意味します。
- 広いSNR範囲での成立: 低SNR(雑音が強い場合)から高SNR(雑音が弱い場合)まで、幅広い条件で理論と実測が一致しています。これは、マッチドフィルタの最適性が特定の条件に限定されるものではなく、一般的に成り立つことの証拠です。
- 低SNR領域での僅かなばらつき: 最も低いSNR領域では、点がわずかに破線からずれることがあります。これは有限回の試行による統計的なばらつきであり、試行回数を増やせば改善します。
シミュレーション4: 複数パルスの検出とSNR改善の可視化
実用的なシナリオとして、異なる時刻に到来する複数のパルスをマッチドフィルタで検出し、入力と出力のSNRを視覚的に比較します。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
# --- パラメータ設定 ---
fs = 50000
T_pulse = 0.002 # パルス幅 2 ms
f_carrier = 5000 # 搬送波周波数 5 kHz
A = 1.0
T_total = 0.05 # 観測時間 50 ms
N0_half = 5.0 # 強い雑音
N_total = int(T_total * fs)
t = np.arange(N_total) / fs
n_pulse = int(T_pulse * fs)
# --- テンプレート信号(正弦波パルス) ---
t_pulse = np.arange(n_pulse) / fs
s_ref = A * np.sin(2 * np.pi * f_carrier * t_pulse)
# --- 複数目標の配置 ---
targets = [
{'delay': 0.010, 'amplitude': 1.0},
{'delay': 0.025, 'amplitude': 0.5}, # 弱い反射
{'delay': 0.035, 'amplitude': 0.8},
]
# --- 送信信号の構築 ---
s_full = np.zeros(N_total)
for tgt in targets:
n_start = int(tgt['delay'] * fs)
n_end = min(n_start + n_pulse, N_total)
s_full[n_start:n_end] = tgt['amplitude'] * s_ref[:n_end - n_start]
# --- 雑音と受信信号 ---
noise_var = N0_half * fs
noise = np.random.randn(N_total) * np.sqrt(noise_var)
x = s_full + noise
# --- マッチドフィルタ ---
h_mf = s_ref[::-1]
y = np.convolve(x, h_mf, mode='full')[:N_total] / fs
# --- SNR計算 ---
E = A**2 * T_pulse / 2 # 正弦波パルスのエネルギー
N0 = 2 * N0_half
snr_theory = 2 * E / N0
print(f"信号エネルギー E = {E:.6f} J")
print(f"理論出力SNR = {snr_theory:.4f} ({10*np.log10(snr_theory):.1f} dB)")
# --- 可視化 ---
fig, axes = plt.subplots(3, 1, figsize=(10, 8), sharex=True)
axes[0].plot(t * 1000, s_full, color='#00d4ff', linewidth=0.8)
axes[0].set_ylabel('Amplitude')
axes[0].set_title('Transmitted Signals (3 targets)')
for tgt in targets:
axes[0].axvline(tgt['delay'] * 1000, color='#ffd93d',
linestyle=':', alpha=0.5)
axes[1].plot(t * 1000, x, color='#888888', linewidth=0.3, alpha=0.7)
axes[1].set_ylabel('Amplitude')
axes[1].set_title('Received Signal (signal + noise)')
# マッチドフィルタ出力(エンベロープ)
y_env = np.abs(y) # 簡易エンベロープ
axes[2].plot(t * 1000, y_env, color='#ff6b6b', linewidth=1.0)
axes[2].set_ylabel('|Output|')
axes[2].set_title('Matched Filter Output (envelope)')
axes[2].set_xlabel('Time [ms]')
# 検出閾値の表示
threshold = 3 * np.std(np.convolve(noise, h_mf, mode='full')[:N_total] / fs)
axes[2].axhline(threshold, color='#ffd93d', linestyle='--',
linewidth=1.5, label=f'Detection threshold (3σ)')
axes[2].legend()
for tgt in targets:
peak_time = (tgt['delay'] + T_pulse) * 1000
axes[2].axvline(peak_time, color='#00d4ff', linestyle=':', alpha=0.5)
plt.tight_layout()
plt.show()
上のグラフから、マッチドフィルタの実用的な検出能力が確認できます。
- 1段目(送信信号): 3つの目標からの反射信号が異なる時刻・振幅で配置されています。2番目の目標($t = 25\,\text{ms}$)は振幅が最も小さく、検出が難しいケースです。
- 2段目(受信信号): 雑音が非常に強く、3つの信号すべてが完全に雑音に埋もれています。目視ではどこに信号があるか全くわかりません。
- 3段目(マッチドフィルタ出力): 3つの目標すべてが明瞭なピークとして検出されています。振幅の大きさもそれぞれの目標の反射強度を反映しており、黄色の破線(検出閾値)を超えています。雑音だけの区間では出力が閾値を下回っており、誤検出を抑制できていることがわかります。
このシミュレーションは、マッチドフィルタがレーダーにおける多目標検出で極めて有効であることを示しています。
マッチドフィルタの限界と拡張
ここまでマッチドフィルタの理論と応用を見てきましたが、その適用には前提条件があり、前提が崩れる場合には拡張が必要になります。
白色雑音の仮定が崩れる場合
マッチドフィルタの導出では、雑音のパワースペクトル密度が全周波数で一定(白色)であることを仮定しました。しかし現実の通信路やレーダー環境では、クラッタ(地面や海面からの不要反射)や干渉によって雑音が色付き(有色雑音)になることがあります。
有色雑音のパワースペクトル密度を $S_n(f)$ としたとき、最適フィルタの周波数応答は次のように修正されます。
$$ H_\text{opt}(f) = \frac{S^*(f)}{S_n(f)} \, e^{-j 2\pi f t_0} $$
白色雑音($S_n(f) = N_0/2 = \text{const}$)の場合は分母が定数になるので、通常のマッチドフィルタ $H(f) \propto S^*(f) e^{-j 2\pi f t_0}$ に帰着します。有色雑音の場合は、雑音が強い周波数帯を追加的に抑圧する「白色化」の効果が加わります。
信号波形が未知の場合
マッチドフィルタは「信号波形が既知」であることを前提としますが、実際には信号パラメータ(周波数、振幅、到来時刻)が未知のことがあります。
このような場合には、パラメータを変えた複数のマッチドフィルタを並列に構成するフィルタバンクを用意します。たとえば、ドップラー効果による周波数シフトが未知の場合、異なるドップラーシフトに対応する複数のマッチドフィルタを同時に走らせ、最大出力を探索します。これは あいまい関数(ambiguity function) の概念に発展する重要なテーマです。
時変チャネルへの対応
マッチドフィルタは線形時不変(LTI)フィルタとして設計されていますが、無線通信路はフェージングによって時変になります。このような環境では、チャネル推定を行いながらフィルタ係数を適応的に更新する適応マッチドフィルタ(adaptive matched filter)が使われます。
これらの拡張はいずれも、マッチドフィルタの基本原理 — 「既知信号との整合をとることでSNRを最大化する」— を様々な実環境に適応させたものです。
まとめ
本記事では、マッチドフィルタの理論を基礎から導出し、その応用と実装を解説しました。
- マッチドフィルタとは: 白色ガウス雑音中の既知信号を検出する際に、ある時刻における出力SNRを最大化する線形フィルタである
- 最適フィルタの導出: シュワルツの不等式を用いて、最適なフィルタの周波数応答が $H_\text{opt}(f) = S^*(f) e^{-j 2\pi f t_0}$ であることを示した
- インパルス応答: マッチドフィルタのインパルス応答は送信信号の時間反転 $h(t) = s(t_0 – t)$ であり、畳み込み時に信号と「ぴったり重なる」ことでエネルギーを最大限に集める
- 最大出力SNR: 出力SNRの最大値は $2E/N_0$ であり、信号波形に依存せず信号エネルギーのみで決まる
- 相関受信機との等価性: マッチドフィルタの判定時刻での出力は、信号との相関を計算する相関受信機と数学的に等価である
- レーダーへの応用: パルス圧縮により、長パルスのエネルギーと短パルスの分解能を同時に実現できる。処理利得は時間帯域幅積 $TB$ に等しい
- ディジタル通信への応用: マッチドフィルタはAWGN通信路における最適受信機であり、ビット誤り率を最小化する
- Pythonシミュレーション: 矩形パルスの検出、チャープ信号のパルス圧縮、SNR改善の定量検証、複数目標の検出を実装し、理論を数値的に確認した
マッチドフィルタの理論は、信号検出・推定の分野における最も基本的で重要な結果の一つです。この理論を土台として、チャープ信号を使ったパルス圧縮の詳細設計や、通信システムにおけるビット誤り率の解析へとステップアップできます。
次のステップとして、以下の記事も参考にしてください。
- パルス圧縮とチャープ信号 — チャープ信号の設計とサイドローブ抑圧
- ビット誤り率の理論 — 各変調方式におけるBERの導出と比較