花粉の粒子を顕微鏡で観察すると、水中で不規則にジグザグと動き続けています。1827年にロバート・ブラウンが観察したこの現象は、分子の熱運動によって引き起こされるものでした。「なめらかに見える水の中で、なぜ粒子はこれほど不規則に動くのか?」— この問いに数学的な答えを与えるのがブラウン運動(Brownian motion)です。
ブラウン運動の数学的モデルはウィーナー過程(Wiener process)とも呼ばれ、確率解析の基盤です。その性質を理解することは、以下のような分野で不可欠です。
- 金融工学: ブラック・ショールズ・モデルの基礎であり、株価変動の連続時間モデルを構成します
- 物理学: 拡散方程式の解としての役割を担い、熱伝導・粒子拡散を記述します
- 確率微分方程式: 伊藤積分の被積分過程の中核であり、SDEの理論全体がブラウン運動の性質に依存します
- 機械学習: 拡散モデル(DDPM等)の理論的基盤であり、スコアベース生成モデルの数学的枠組みを提供します
本記事の内容
- ブラウン運動の定義と直感的理解
- 標本路の連続性の証明
- 至る所非微分可能性の証明
- 自己相似性(スケーリング則)
- マルチンゲール性と強マルコフ性
- 2次変分の計算とその意義
- Pythonによるシミュレーションと性質の可視化
前提知識
この記事を読む前に、以下の記事を読んでおくと理解が深まります。
- 正規分布 — ブラウン運動の増分分布
- ランダムウォークの理論 — ブラウン運動の離散近似
- マルコフ連鎖の理論 — マルコフ性の基礎
ブラウン運動とは — 直感的理解
ランダムウォークの極限としてのブラウン運動
ブラウン運動を理解する最も直感的な方法は、ランダムウォークの連続極限として考えることです。
1次元の対称ランダムウォーク $S_n = X_1 + X_2 + \cdots + X_n$(各 $X_i$ は $+1$ か $-1$ を等確率で取る)を考えましょう。$n$ ステップの時間間隔を $\Delta t = T/n$ とし、空間のスケールを $\Delta x = \sqrt{\Delta t}$ に取ります。すると、中心極限定理により、$n \to \infty$ の極限で時刻 $t$ での位置の分布は $N(0, t)$ に収束します。
この極限操作で得られる連続時間の確率過程がブラウン運動です。「細かい時間刻みで小さなランダムステップを無限回繰り返した結果の極限」— これがブラウン運動の直感的な姿です。
ブラウン運動の数学的定義
ブラウン運動の正式な定義を述べましょう。確率過程 $\{B_t\}_{t \geq 0}$ が以下の4つの条件を満たすとき、標準ブラウン運動(standard Brownian motion)と呼びます。
定義(標準ブラウン運動):
- 初期条件: $B_0 = 0$(原点から出発する)
- 独立増分: $0 \leq t_1 < t_2 < \cdots < t_n$ に対して、増分 $B_{t_2} - B_{t_1}, B_{t_3} - B_{t_2}, \dots, B_{t_n} - B_{t_{n-1}}$ は互いに独立
- 正規増分: 任意の $0 \leq s < t$ に対して、$B_t - B_s \sim N(0, t - s)$
- 標本路の連続性: $t \mapsto B_t(\omega)$ はほとんど確実に(a.s.)連続
条件2と条件3は、「どの時間区間を取っても増分は正規分布に従い、重なりのない区間の増分は独立」であることを意味します。条件4は「経路が途切れずつながっている」ことを保証します。
この4条件がブラウン運動のすべての性質を導く出発点です。一見シンプルに見えますが、ここから驚くべき性質が次々と導かれます。
ブラウン運動の定義から直ちにわかる基本的な性質をまとめておきましょう。
$$ E[B_t] = 0, \quad \text{Var}(B_t) = t $$
$$ \text{Cov}(B_s, B_t) = \min(s, t) \quad (s, t \geq 0) $$
共分散の導出は次の通りです。$s \leq t$ とすると、$B_t = B_s + (B_t – B_s)$ と分解できます。$B_s$ と $B_t – B_s$ は独立(独立増分性)なので、
$$ \text{Cov}(B_s, B_t) = \text{Cov}(B_s, B_s + (B_t – B_s)) = \text{Cov}(B_s, B_s) + \text{Cov}(B_s, B_t – B_s) = \text{Var}(B_s) + 0 = s $$
$s \leq t$ のとき $s = \min(s, t)$ なので、$\text{Cov}(B_s, B_t) = \min(s, t)$ が成り立ちます。
この共分散構造は、ブラウン運動が「過去の影響を保持しつつ、将来の増分は独立」という性質を持つことを反映しています。ここまでの基本性質を土台に、標本路のより深い解析的性質を探っていきましょう。
標本路の連続性
連続性の意味
ブラウン運動の定義で「標本路が連続」と述べました。これは、各 $\omega$(確率空間の要素)を固定したとき、関数 $t \mapsto B_t(\omega)$ が通常の意味で連続であるということです。ただし「ほとんど確実に」(almost surely)という但し書きがあり、確率0の例外集合を除いて連続であるという意味です。
直感的には、ブラウン運動の経路を時間の関数としてグラフにすると、途切れたり飛んだりすることなく、ペンを紙から離さずに描ける曲線になるということです。
ヘルダー連続性
ブラウン運動の標本路は連続ですが、単なる連続よりもう少し精密な正則性を持ちます。それがヘルダー連続性(Hölder continuity)です。
定理(ブラウン運動のヘルダー連続性): 任意の $\alpha < 1/2$ に対して、ブラウン運動の標本路はほとんど確実にヘルダー連続である。すなわち、任意のコンパクト区間 $[0, T]$ 上で、ある定数 $C(\omega) < \infty$ が存在して、
$$ |B_t(\omega) – B_s(\omega)| \leq C(\omega) |t – s|^{\alpha} \quad \forall s, t \in [0, T] $$
が成り立つ。一方、$\alpha = 1/2$ ではヘルダー連続でない。
この定理の意味を考えましょう。ヘルダー指数 $\alpha$ は標本路の「なめらかさの程度」を表します。$\alpha = 1$ であればリプシッツ連続(微分可能に近い)であり、$\alpha$ が小さいほど「ギザギザ」です。ブラウン運動は $\alpha < 1/2$ までのヘルダー連続性は持ちますが、$\alpha = 1/2$ 以上では持ちません。
コルモゴロフの連続性定理による証明
ブラウン運動の標本路の連続性を厳密に証明するために、コルモゴロフの連続性定理(Kolmogorov continuity theorem)を用います。
定理(コルモゴロフの連続性定理): 確率過程 $\{X_t\}_{t \in [0, T]}$ が以下を満たすとする。定数 $\alpha > 0$, $\beta > 0$, $C > 0$ が存在して、
$$ E[|X_t – X_s|^{\alpha}] \leq C |t – s|^{1 + \beta} \quad \forall s, t \in [0, T] $$
ならば、$X_t$ はほとんど確実に連続な修正版(modification)を持つ。さらに、任意の $\gamma \in (0, \beta/\alpha)$ に対してヘルダー連続(指数 $\gamma$)である。
ブラウン運動にこの定理を適用しましょう。$B_t – B_s \sim N(0, t – s)$ なので、正規分布の偶数次モーメントを使います。正規変数 $Z \sim N(0, \sigma^2)$ に対して、
$$ E[Z^{2k}] = \sigma^{2k} (2k-1)!! = \sigma^{2k} \cdot \frac{(2k)!}{2^k k!} $$
$\alpha = 2k$(偶数)を選ぶと、
$$ E[|B_t – B_s|^{2k}] = (t – s)^k (2k – 1)!! $$
$1 + \beta$ の指数と比較するために、$k$ を整理します。$|t-s|^k$ の形なので、$1 + \beta = k$ とすればよく、$\beta = k – 1$ です。このとき、
$$ \gamma < \frac{\beta}{\alpha} = \frac{k - 1}{2k} = \frac{1}{2} - \frac{1}{2k} $$
$k$ をいくらでも大きく取れるので、$\gamma$ は $1/2$ にいくらでも近づけられます。したがって、任意の $\gamma < 1/2$ に対してブラウン運動の標本路はほとんど確実にヘルダー連続(指数 $\gamma$)です。
この結果は、ブラウン運動の経路が「連続だがギリギリ $1/2$-ヘルダー連続ではない」ことを示しています。$1/2$ という臨界指数は、ランダムウォークの標準偏差が $\sqrt{n}$ のオーダーで成長するという事実と深く結びついています。
では、ブラウン運動の経路が微分可能かどうかを調べましょう。直感的には「$1/2$-ヘルダー連続ですらない」という事実から、微分可能性は期待できそうにありません。
至る所非微分可能性
直感的理解
ブラウン運動の標本路は連続ですが、どの点でも微分可能ではありません。この一見矛盾する性質は、ブラウン運動の最も驚くべき特徴の一つです。
直感的には、時間幅 $h$ での増分 $B_{t+h} – B_t$ は $N(0, h)$ に従うので、差分商は
$$ \frac{B_{t+h} – B_t}{h} \sim N\left(0, \frac{1}{h}\right) $$
となります。$h \to 0$ とすると分散が $1/h \to \infty$ に発散します。つまり、差分商は $h$ を小さくするほど激しく振動し、極限値を持ちません。経路を拡大すればするほど、ギザギザが見えてくるのです。
非微分可能性の証明
正式に証明しましょう。ここでは、至る所非微分可能(nowhere differentiable)であること、すなわち確率1で任意の $t \geq 0$ において微分可能でないことを示します。
定理: ブラウン運動の標本路は、ほとんど確実に至る所微分不可能である。すなわち、
$$ P\left(\exists t \geq 0 : B_t(\omega) \text{ が } t \text{ で微分可能}\right) = 0 $$
証明の方針: $[0, 1]$ 上でブラウン運動が微分可能な点が存在すると仮定し、矛盾を導きます。
もし $B_t$ が $t = t_0$ で微分可能ならば、ある定数 $M > 0$ と十分小さな $\delta > 0$ が存在して、
$$ |B_{t_0 + h} – B_{t_0}| \leq M|h| \quad \forall |h| < \delta $$
が成り立ちます。これをリプシッツ条件の局所版と見ることができます。
$[0, 1]$ を $n$ 等分し、$t_k = k/n$($k = 0, 1, \dots, n$)とします。$t_0 \in [t_k, t_{k+1}]$ となる $k$ をとると、三角不等式から、
$$ |B_{t_{k+1}} – B_{t_k}| \leq |B_{t_{k+1}} – B_{t_0}| + |B_{t_0} – B_{t_k}| \leq M \cdot \frac{1}{n} + M \cdot \frac{1}{n} = \frac{2M}{n} $$
また、隣接する3つの区間分割点を使うと、
$$ \max\left(|B_{t_{k+1}} – B_{t_k}|, |B_{t_{k+2}} – B_{t_{k+1}}|, |B_{t_{k+3}} – B_{t_{k+2}}|\right) \leq \frac{2M}{n} $$
が成り立ちます($t_0$ はこれら3区間のいずれかに含まれるか隣接するため)。
いま、事象
$$ A_n = \bigcup_{k=0}^{n-3} \left\{\max_{j \in \{0,1,2\}} |B_{t_{k+j+1}} – B_{t_{k+j}}| \leq \frac{2M}{n}\right\} $$
を考えます。微分可能な点が存在するならば、十分大きな $n$ に対して $A_n$ が成り立たなければなりません。
各区間の増分 $B_{t_{k+1}} – B_{t_k} \sim N(0, 1/n)$ は独立なので、$Z \sim N(0, 1)$ に対して、
$$ P\left(|B_{t_{k+1}} – B_{t_k}| \leq \frac{2M}{n}\right) = P\left(|Z| \leq \frac{2M}{\sqrt{n}}\right) \leq \frac{4M}{\sqrt{2\pi n}} $$
連続する3つの増分がすべてこの条件を満たす確率は、独立性から、
$$ P\left(\max_{j \in \{0,1,2\}} |B_{t_{k+j+1}} – B_{t_{k+j}}| \leq \frac{2M}{n}\right) \leq \left(\frac{4M}{\sqrt{2\pi n}}\right)^3 = \frac{C}{n^{3/2}} $$
$k$ に関する和を取ると、
$$ P(A_n) \leq n \cdot \frac{C}{n^{3/2}} = \frac{C}{n^{1/2}} \to 0 \quad (n \to \infty) $$
したがって、微分可能な点が存在する確率は $P(A_n) \to 0$ から0であり、ブラウン運動はほとんど確実に至る所微分不可能です。$\blacksquare$
非微分可能性の物理的意味
至る所非微分可能という性質は、ブラウン運動に「速度」が定義できないことを意味します。物理的に考えると、花粉粒子は分子の衝突を受けて常に方向を変えており、どの瞬間にも「瞬間速度」を定めることができません。
この事実は、ブラウン運動を含む確率微分方程式(SDE)を扱う際に、通常の微分積分学では不十分であり、伊藤積分(Itô integral)という新しい積分の枠組みが必要になる理由でもあります。
ブラウン運動は連続で、かつ至る所微分不可能という「極端にギザギザだが途切れない」経路を持つことがわかりました。次に、この経路にはスケーリングに関する美しい対称性が隠されていることを見ていきましょう。
自己相似性(スケーリング則)
スケーリング不変性
ブラウン運動の標本路を拡大しても、統計的に同じ形に見えるという性質を自己相似性(self-similarity)と呼びます。フラクタル幾何学の言葉を使えば、ブラウン運動の経路はフラクタルです。
定理(ブラウン運動のスケーリング則): $\{B_t\}_{t \geq 0}$ が標準ブラウン運動であるとき、任意の $c > 0$ に対して、
$$ \left\{\frac{1}{\sqrt{c}} B_{ct}\right\}_{t \geq 0} \overset{d}{=} \{B_t\}_{t \geq 0} $$
ここで $\overset{d}{=}$ は有限次元分布の意味での等号(法則の同等性)を表します。
証明: $\tilde{B}_t = \frac{1}{\sqrt{c}} B_{ct}$ がブラウン運動の4つの定義条件を満たすことを確認します。
条件1(初期値): $\tilde{B}_0 = \frac{1}{\sqrt{c}} B_0 = 0$。$\checkmark$
条件2(独立増分): $0 \leq t_1 < t_2 < \cdots < t_n$ に対して、
$$ \tilde{B}_{t_i} – \tilde{B}_{t_{i-1}} = \frac{1}{\sqrt{c}}(B_{ct_i} – B_{ct_{i-1}}) $$
$0 \leq ct_1 < ct_2 < \cdots < ct_n$ なので、$B_{ct_i} - B_{ct_{i-1}}$ たちは独立($B_t$ の独立増分性)。定数倍しても独立性は保たれます。$\checkmark$
条件3(正規増分):
$$ \tilde{B}_t – \tilde{B}_s = \frac{1}{\sqrt{c}}(B_{ct} – B_{cs}) \sim \frac{1}{\sqrt{c}} N(0, c(t-s)) = N(0, t-s) $$
正規分布 $N(0, c(t-s))$ を $1/\sqrt{c}$ 倍すると分散が $c(t-s)/c = t-s$ になるので、$\tilde{B}_t – \tilde{B}_s \sim N(0, t-s)$ です。$\checkmark$
条件4(標本路の連続性): $B_t$ が連続ならば $t \mapsto B_{ct}$ も連続であり、定数倍 $1/\sqrt{c}$ も連続性を保存します。$\checkmark$
4条件すべてが確認できたので、$\tilde{B}_t$ は標準ブラウン運動です。$\blacksquare$
自己相似性の直感的意味
スケーリング則は、「時間軸を $c$ 倍に引き伸ばし、空間軸を $\sqrt{c}$ 倍に引き伸ばすと、統計的に同じ経路が得られる」ことを意味します。
これはフラクタルの特徴的な性質です。海岸線の形状を拡大しても同じような複雑さが見えるのと同様に、ブラウン運動の経路を時間方向にどれだけ拡大しても、同じ統計的構造が現れます。
ブラウン運動のフラクタル次元は $d = 3/2$ です。1次元の曲線(次元1)よりも複雑で、2次元の面を埋め尽くす曲線(次元2)よりは単純です。この値は、ヘルダー連続性の臨界指数 $1/2$ と関係しています。一般に、$\alpha$-ヘルダー連続な曲線のフラクタル次元は高々 $1/\alpha$ であり、ブラウン運動は $\alpha < 1/2$ なので次元は高々 $1/(1/2) = 2$ ですが、厳密には $3/2$ であることが知られています。
時間反転対称性
自己相似性と関連する対称性として、時間反転の性質があります。
定理(時間反転): $\{B_t\}_{0 \leq t \leq T}$ が標準ブラウン運動であるとき、
$$ \tilde{B}_t = B_T – B_{T-t}, \quad 0 \leq t \leq T $$
も $[0, T]$ 上の標準ブラウン運動です。
この性質は、ブラウン運動の経路を「逆再生」しても統計的に区別できないことを意味します。直感的に言えば、ブラウン運動には時間の矢印がありません。
証明: $\tilde{B}_0 = B_T – B_T = 0$ です。増分 $\tilde{B}_t – \tilde{B}_s = (B_{T-s} – B_{T-t})$ を考えると、$T – t < T - s$ なので、$B_t$ の独立正規増分の性質から、$\tilde{B}_t - \tilde{B}_s \sim N(0, (T-s) - (T-t)) = N(0, t-s)$ です。独立増分性と連続性も同様に確認でき、$\tilde{B}_t$ は標準ブラウン運動です。$\blacksquare$
時間の反転による新しいブラウン運動
もう一つの重要な変換として、次のものがあります。
定理: $\{B_t\}_{t \geq 0}$ が標準ブラウン運動であるとき、
$$ \tilde{B}_t = t B_{1/t}, \quad t > 0, \quad \tilde{B}_0 = 0 $$
も標準ブラウン運動です。
この変換は、時間 $0$ 付近の振る舞いと $t \to \infty$ での振る舞いを交換します。ブラウン運動が $t \to \infty$ でどのように振る舞うかを、$t \to 0$ 付近の解析に帰着させる強力なツールです。
証明は共分散の計算で確認できます。$s \leq t$ のとき、
$$ \text{Cov}(\tilde{B}_s, \tilde{B}_t) = st \cdot \text{Cov}(B_{1/s}, B_{1/t}) = st \cdot \min\left(\frac{1}{s}, \frac{1}{t}\right) = st \cdot \frac{1}{t} = s = \min(s, t) $$
正規過程で共分散構造がブラウン運動と一致すれば、有限次元分布が一致します。$t = 0$ での連続性はやや精密な議論が必要ですが、大数の法則から $B_{1/t}/(1/t) \to 0$(a.s., $t \to \infty$)を使うと $\tilde{B}_t = t B_{1/t} \to 0$(a.s., $t \to 0$)が示せます。
ここまで、ブラウン運動の経路に関するスケーリング対称性と変換の性質を見てきました。次に、ブラウン運動の確率論的な構造 — マルチンゲール性と強マルコフ性 — に目を向けましょう。
マルチンゲール性と強マルコフ性
ブラウン運動のマルチンゲール性
ブラウン運動はマルチンゲール(martingale)です。直感的には、「ブラウン運動の将来の期待値は現在の値と等しい」という公平なゲームの性質を持つことを意味します。
定理: $\{B_t\}_{t \geq 0}$ を標準ブラウン運動とし、$\{\mathcal{F}_t\}$ をその自然フィルトレーションとする。このとき、
$$ E[B_t \mid \mathcal{F}_s] = B_s \quad (s \leq t) $$
証明: $B_t = B_s + (B_t – B_s)$ と分解します。$B_t – B_s$ は $\mathcal{F}_s$ と独立(独立増分性)で $E[B_t – B_s] = 0$ なので、
$$ E[B_t \mid \mathcal{F}_s] = E[B_s \mid \mathcal{F}_s] + E[B_t – B_s \mid \mathcal{F}_s] = B_s + E[B_t – B_s] = B_s + 0 = B_s $$
$\blacksquare$
関連するマルチンゲール
ブラウン運動から派生する重要なマルチンゲールをいくつか紹介します。
1. $B_t^2 – t$ はマルチンゲール:
$$ E[B_t^2 – t \mid \mathcal{F}_s] = E[(B_s + (B_t – B_s))^2 – t \mid \mathcal{F}_s] $$
右辺を展開します。$\Delta B = B_t – B_s$ とおくと、
$$ = E[B_s^2 + 2B_s \Delta B + (\Delta B)^2 – t \mid \mathcal{F}_s] $$
$B_s$ は $\mathcal{F}_s$-可測で、$\Delta B$ は $\mathcal{F}_s$ と独立なので、
$$ = B_s^2 + 2B_s \cdot E[\Delta B] + E[(\Delta B)^2] – t = B_s^2 + 0 + (t – s) – t = B_s^2 – s $$
したがって $B_t^2 – t$ はマルチンゲールです。この事実は、$B_t^2$ の「予測可能な成長部分」が $t$(線形)であることを意味し、2次変分の議論の伏線となります。
2. 指数マルチンゲール: 任意の $\theta \in \mathbb{R}$ に対して、
$$ M_t = \exp\left(\theta B_t – \frac{\theta^2 t}{2}\right) $$
はマルチンゲールです。
証明は、$E[\exp(\theta(B_t – B_s)) \mid \mathcal{F}_s]$ を計算し、正規分布のモーメント母関数 $E[e^{\theta Z}] = e^{\theta^2 \sigma^2/2}$($Z \sim N(0, \sigma^2)$)を使うと得られます。
$$ E[M_t \mid \mathcal{F}_s] = M_s \cdot E\left[\exp\left(\theta(B_t – B_s) – \frac{\theta^2(t-s)}{2}\right)\right] = M_s \cdot e^{\theta^2(t-s)/2} \cdot e^{-\theta^2(t-s)/2} = M_s $$
指数マルチンゲールは、確率測度の変換(ギルサノフの定理)や金融工学でのリスク中立測度の構成において中心的な役割を果たします。
強マルコフ性
ブラウン運動はマルコフ性、すなわち「将来の振る舞いは現在の値のみに依存し、過去の経路には依存しない」という性質を持ちます。さらに強い性質として、強マルコフ性(strong Markov property)が成り立ちます。
定理(強マルコフ性): $\tau$ をブラウン運動 $\{B_t\}$ に対する停止時刻($\tau < \infty$ a.s.)とする。このとき、
$$ \tilde{B}_t = B_{\tau + t} – B_{\tau}, \quad t \geq 0 $$
は $\mathcal{F}_{\tau}$(時刻 $\tau$ までの情報)と独立な標準ブラウン運動である。
マルコフ性が「決定論的な時刻で切っても将来は独立」であるのに対し、強マルコフ性は「ランダムな時刻で切っても将来は独立」という、より強い主張です。
例えば、「ブラウン運動が初めて $a > 0$ に到達した時刻 $\tau_a = \inf\{t \geq 0 : B_t = a\}$」で切っても、$B_{\tau_a + t} – a$ は新しいブラウン運動です。これは、初到達時刻の解析や反射原理の基盤となります。
マルチンゲール性と強マルコフ性は、ブラウン運動の確率論的な豊かさを保証しています。次に、ブラウン運動特有の解析的性質である2次変分を調べ、伊藤積分への橋渡しを行いましょう。
2次変分
2次変分の定義と直感
通常のなめらかな関数 $f(t)$ に対して、2次変分(quadratic variation)
$$ [f]_T = \lim_{|\Pi| \to 0} \sum_{i=0}^{n-1} (f(t_{i+1}) – f(t_i))^2 $$
は常にゼロです。ここで $\Pi = \{0 = t_0 < t_1 < \cdots < t_n = T\}$ は $[0, T]$ の分割で、$|\Pi| = \max_i (t_{i+1} - t_i)$ はメッシュ幅です。なめらかな関数では各増分が $O(|\Pi|)$ なので、二乗和は $O(|\Pi|) \to 0$ となります。
ところが、ブラウン運動は非微分可能であるため、増分のオーダーが異なり、2次変分は非自明な値を持ちます。
ブラウン運動の2次変分
定理: 標準ブラウン運動 $\{B_t\}$ の $[0, T]$ 上の2次変分は、
$$ [B]_T = \lim_{|\Pi| \to 0} \sum_{i=0}^{n-1} (B_{t_{i+1}} – B_{t_i})^2 = T \quad \text{($L^2$ 収束およびa.s.収束)} $$
「ブラウン運動の2次変分は時間そのもの」— この結果は確率解析の根幹を成す事実です。微分形式で書くと、
$$ (dB_t)^2 = dt $$
となります。これが伊藤の公式(Itô’s formula)において $dt$ の項が生じる根本的な理由です。
証明($L^2$ 収束): $[0, T]$ の等分割 $t_i = iT/n$, $\Delta t = T/n$ を考えます。$\Delta B_i = B_{t_{i+1}} – B_{t_i}$ とおくと、
$$ Q_n = \sum_{i=0}^{n-1} (\Delta B_i)^2 $$
の期待値を計算します。各 $\Delta B_i \sim N(0, \Delta t)$ なので $E[(\Delta B_i)^2] = \Delta t$ です。よって、
$$ E[Q_n] = \sum_{i=0}^{n-1} E[(\Delta B_i)^2] = n \cdot \Delta t = T $$
次に $Q_n$ の分散を計算します。$\Delta B_i$ たちは独立なので、
$$ \text{Var}(Q_n) = \sum_{i=0}^{n-1} \text{Var}((\Delta B_i)^2) $$
$Z \sim N(0, 1)$ に対して $\text{Var}(Z^2) = E[Z^4] – (E[Z^2])^2 = 3 – 1 = 2$ なので、
$$ \text{Var}((\Delta B_i)^2) = (\Delta t)^2 \cdot \text{Var}(Z^2) = 2(\Delta t)^2 $$
したがって、
$$ \text{Var}(Q_n) = n \cdot 2(\Delta t)^2 = n \cdot 2 \cdot \frac{T^2}{n^2} = \frac{2T^2}{n} \to 0 \quad (n \to \infty) $$
$E[Q_n] = T$ かつ $\text{Var}(Q_n) \to 0$ なので、$Q_n \to T$ が $L^2$ 収束(したがって確率収束)の意味で成り立ちます。チェビシェフの不等式から、
$$ P(|Q_n – T| > \varepsilon) \leq \frac{\text{Var}(Q_n)}{\varepsilon^2} = \frac{2T^2}{n\varepsilon^2} \to 0 $$
より精密な議論(ボレル・カンテリの補題の適用)により、概収束も示せます。$\blacksquare$
2次変分の意義
ブラウン運動の2次変分が $T$(ゼロでない確定値)であるという事実は、以下の重要な帰結をもたらします。
1. 伊藤の公式: 通常の微積分でのチェインルール $df(B_t) = f'(B_t) dB_t$ に加えて、2次変分の寄与 $\frac{1}{2} f”(B_t) dt$ が追加されます。
$$ df(B_t) = f'(B_t) dB_t + \frac{1}{2} f”(B_t) dt $$
この「余分な項」は、2次変分が非ゼロであることの直接的な帰結です。
2. 有限変動でない: $[0, T]$ 上のブラウン運動の全変動(1次変分)
$$ V_T = \lim_{|\Pi| \to 0} \sum_{i=0}^{n-1} |B_{t_{i+1}} – B_{t_i}| $$
は a.s. で $+\infty$ です。実際、
$$ \sum |B_{t_{i+1}} – B_{t_i}| \geq \frac{\sum (B_{t_{i+1}} – B_{t_i})^2}{\max_i |B_{t_{i+1}} – B_{t_i}|} $$
分子は $T$ に収束し、分母は0に収束するため、全体は $+\infty$ に発散します。ブラウン運動の経路は有限変動ではないため、リーマン・スティルチェス積分で $\int f \, dB_t$ を定義することはできず、伊藤積分が必要になります。
3. $(dB_t)^2 = dt$ の直感: ブラウン運動の微小増分 $dB_t$ は、二乗したとき決定論的な量 $dt$ に「固まる」(ランダム性が消える)。これはランダムウォークの法則と深く関連しています — $n$ 個の独立な $\pm 1$ の二乗和は $n$(確定値)です。
ブラウン運動の2次変分は、通常の微積分学とは根本的に異なる確率解析の出発点を提供します。ここまでの理論的な性質を、Pythonによるシミュレーションで視覚的に確認してみましょう。
Pythonによるシミュレーションと性質の可視化
ブラウン運動のシミュレーション
まず、ブラウン運動のサンプルパスを生成する基本的なコードを書きます。ブラウン運動は正規増分の累積和として離散近似できます。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
np.random.seed(42)
# パラメータ
T = 1.0 # 最終時刻
N = 10000 # ステップ数
dt = T / N # 時間刻み
# ブラウン運動のシミュレーション(5本のパス)
n_paths = 5
t = np.linspace(0, T, N + 1)
fig, ax = plt.subplots(figsize=(10, 5))
for i in range(n_paths):
dB = np.random.normal(0, np.sqrt(dt), N)
B = np.concatenate([[0], np.cumsum(dB)])
ax.plot(t, B, linewidth=0.7, alpha=0.8)
ax.set_xlabel("Time t")
ax.set_ylabel("B(t)")
ax.set_title("Sample Paths of Brownian Motion")
ax.axhline(y=0, color='k', linewidth=0.5, linestyle='--')
ax.grid(True, alpha=0.3)
plt.tight_layout()
plt.show()
上のグラフから、ブラウン運動の特徴がいくつか読み取れます。5本のパスはいずれも原点から出発し、連続的に変動しています。パス同士は時間が経つにつれて広がっていきますが、これは分散が $\text{Var}(B_t) = t$ で線形に増加することと整合しています。経路のギザギザは拡大してもなくならず、これが非微分可能性の視覚的な現れです。
自己相似性の可視化
スケーリング則を視覚的に確認しましょう。同じブラウン運動のパスを異なるスケールで観察し、統計的に類似した構造が見えることを示します。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
np.random.seed(123)
T = 1.0
N = 100000
dt = T / N
dB = np.random.normal(0, np.sqrt(dt), N)
B = np.concatenate([[0], np.cumsum(dB)])
t = np.linspace(0, T, N + 1)
fig, axes = plt.subplots(1, 3, figsize=(15, 4))
scales = [(0, T, "Full path [0, 1]"),
(0, 0.1, "Zoom [0, 0.1]"),
(0, 0.01, "Zoom [0, 0.01]")]
for ax, (t_start, t_end, title) in zip(axes, scales):
mask = (t >= t_start) & (t <= t_end)
t_sub = t[mask]
B_sub = B[mask]
# 空間をスケーリング(自己相似性: 時間をc倍 → 空間をsqrt(c)倍)
scale_factor = np.sqrt(t_end - t_start)
ax.plot((t_sub - t_start) / (t_end - t_start),
(B_sub - B_sub[0]) / scale_factor,
linewidth=0.5, color='steelblue')
ax.set_title(title)
ax.set_xlabel("Normalized time")
ax.set_ylabel("Scaled B(t)")
ax.grid(True, alpha=0.3)
plt.tight_layout()
plt.show()
3つのパネルは、同じブラウン運動を異なる時間スケールで観察し、$\sqrt{c}$ で空間をスケーリングしたものです。どのスケールでもパスは統計的に似た複雑さを持っています。これがスケーリング則 $B_{ct}/\sqrt{c} \overset{d}{=} B_t$ の視覚的な確認です。フラクタル的な構造 — 拡大しても同じようなギザギザが現れる — が明確に見て取れます。
非微分可能性の可視化
ブラウン運動の差分商 $(B_{t+h} – B_t)/h$ が $h \to 0$ で発散することを可視化します。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
np.random.seed(42)
T = 1.0
N = 1000000
dt = T / N
dB = np.random.normal(0, np.sqrt(dt), N)
B = np.concatenate([[0], np.cumsum(dB)])
t = np.linspace(0, T, N + 1)
# 異なるhで差分商を計算
t0_idx = N // 2 # t = 0.5 付近
hs = [0.1, 0.01, 0.001, 0.0001]
fig, axes = plt.subplots(2, 2, figsize=(12, 8))
for ax, h in zip(axes.flatten(), hs):
n_h = int(h / dt)
if n_h == 0:
n_h = 1
# 各時刻での差分商
indices = np.arange(0, N - n_h, max(1, n_h // 10))
diffs = (B[indices + n_h] - B[indices]) / h
ax.plot(t[indices], diffs, linewidth=0.3, color='steelblue')
ax.set_title(f"h = {h}, std ≈ {np.std(diffs):.1f}")
ax.set_xlabel("t")
ax.set_ylabel("(B(t+h) - B(t)) / h")
ax.grid(True, alpha=0.3)
plt.suptitle("Difference Quotients of Brownian Motion", fontsize=14)
plt.tight_layout()
plt.show()
$h$ を小さくするにつれて差分商の標準偏差が増大する様子が確認できます。理論的には $\text{std} = 1/\sqrt{h}$ なので、$h = 0.1$ で約3.2、$h = 0.01$ で約10、$h = 0.001$ で約31.6、$h = 0.0001$ で約100と、$h$ を10分の1にするたびに標準偏差が $\sqrt{10} \approx 3.16$ 倍になります。差分商が発散するという事実は、ブラウン運動がどの点でも微分可能でないことを数値的に裏付けています。
2次変分の収束
2次変分が $T$ に収束することを数値的に確認します。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
np.random.seed(42)
T = 1.0
N = 100000
dt = T / N
dB = np.random.normal(0, np.sqrt(dt), N)
B = np.concatenate([[0], np.cumsum(dB)])
# 分割数を変えて2次変分を計算
n_partitions = [10, 50, 100, 500, 1000, 5000, 10000, 50000]
qv_values = []
for n in n_partitions:
step = N // n
indices = np.arange(0, N + 1, step)
B_sub = B[indices]
qv = np.sum(np.diff(B_sub)**2)
qv_values.append(qv)
fig, ax = plt.subplots(figsize=(8, 5))
ax.semilogx(n_partitions, qv_values, 'o-', color='steelblue', markersize=6)
ax.axhline(y=T, color='red', linestyle='--', linewidth=1.5, label=f"T = {T}")
ax.set_xlabel("Number of partitions n")
ax.set_ylabel("Quadratic variation")
ax.set_title("Convergence of Quadratic Variation to T")
ax.legend()
ax.grid(True, alpha=0.3)
plt.tight_layout()
plt.show()
print(f"分割数 → 2次変分:")
for n, qv in zip(n_partitions, qv_values):
print(f" n = {n:>6d}: [B]_T = {qv:.6f}")
グラフから、分割数 $n$ を増やすにつれて2次変分の値が $T = 1.0$ に収束する様子が確認できます。分割が粗い($n = 10$)ときは揺らぎがありますが、$n$ が大きくなるにつれて急速に $T$ に近づきます。これは理論値 $[B]_T = T$ と完全に整合しており、分散が $2T^2/n$ で減少するという解析結果も数値的に確認されています。
$B_t^2 – t$ のマルチンゲール性の確認
$B_t^2 – t$ がマルチンゲールであることを、多数のパスの条件付き期待値を計算して確認します。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
np.random.seed(42)
T = 2.0
N = 10000
dt = T / N
n_paths = 10000
t = np.linspace(0, T, N + 1)
# 多数パスのシミュレーション
B_all = np.zeros((n_paths, N + 1))
for i in range(n_paths):
dB = np.random.normal(0, np.sqrt(dt), N)
B_all[i] = np.concatenate([[0], np.cumsum(dB)])
M = B_all**2 - t[np.newaxis, :] # B_t^2 - t
fig, axes = plt.subplots(1, 2, figsize=(14, 5))
# 左: B_t^2 - t の期待値(0であるべき)
ax = axes[0]
mean_M = np.mean(M, axis=0)
std_M = np.std(M, axis=0) / np.sqrt(n_paths)
ax.plot(t, mean_M, color='steelblue', linewidth=1.5)
ax.fill_between(t, mean_M - 2*std_M, mean_M + 2*std_M, alpha=0.3, color='steelblue')
ax.axhline(y=0, color='red', linestyle='--', linewidth=1)
ax.set_xlabel("Time t")
ax.set_ylabel("E[B(t)² - t]")
ax.set_title("E[B(t)² - t] ≈ 0 (Martingale)")
ax.grid(True, alpha=0.3)
# 右: 条件付き期待値の確認
ax = axes[1]
s_idx = N // 4 # s = T/4
# 時刻sでの値を固定して、その後の条件付き期待値を追跡
s_val = M[:, s_idx]
ax.hist(s_val, bins=50, density=True, alpha=0.7, color='steelblue',
label=f"B({t[s_idx]:.1f})² - {t[s_idx]:.1f}")
ax.axvline(x=np.mean(s_val), color='red', linestyle='--', linewidth=1.5,
label=f"mean = {np.mean(s_val):.3f}")
ax.set_xlabel("B(s)² - s")
ax.set_ylabel("Density")
ax.set_title(f"Distribution of B(s)² - s at s = {t[s_idx]:.2f}")
ax.legend()
ax.grid(True, alpha=0.3)
plt.tight_layout()
plt.show()
左のパネルでは、$E[B_t^2 – t]$ がすべての時刻でほぼ0であることが確認できます。水色の帯は標準誤差の2倍を表しており、赤い破線($y = 0$)がこの帯の中に収まっています。これはマルチンゲールの性質 $E[B_t^2 – t] = E[B_0^2 – 0] = 0$ と整合しています。右のパネルは、ある時刻 $s$ での $B_s^2 – s$ の分布を示しており、平均がほぼ0であることが確認できます。
ブラウン運動の経路に関する追加の性質
零点集合とアークサインの法則
ブラウン運動の経路が0を横切るタイミングにも興味深い性質があります。$Z = \{t \in [0, 1] : B_t = 0\}$(零点集合)は、ルベーグ測度0でありながら非可算無限個の点からなる閉集合であり、フラクタル的な構造を持ちます。
関連する有名な結果としてアークサインの法則(arcsine law)があります。
定理(レヴィのアークサインの法則): 対称ランダムウォーク(あるいはブラウン運動)が $[0, T]$ で正の側にいた時間の割合を $L_T$ とすると、
$$ P(L_T \leq x) = \frac{2}{\pi} \arcsin(\sqrt{x}), \quad 0 \leq x \leq 1 $$
この結果は直感に反しています。多くの人は「ブラウン運動は対称だから、正の側と負の側に半々の時間いるだろう」と予想しますが、実際には $L_T = 0$ 付近や $L_T = 1$ 付近(つまり、ほとんどの時間を片側で過ごす)の確率が最も高いのです。アークサイン分布の密度関数は $f(x) = \frac{1}{\pi\sqrt{x(1-x)}}$ で、$x = 0$ と $x = 1$ で発散するU字型をしています。
最大値の分布と反射原理
$[0, T]$ でのブラウン運動の最大値 $M_T = \max_{0 \leq t \leq T} B_t$ の分布は、反射原理(reflection principle)を使って求められます。
定理(反射原理): $a > 0$ に対して、
$$ P(M_T \geq a) = 2P(B_T \geq a) = 2\left(1 – \Phi\left(\frac{a}{\sqrt{T}}\right)\right) $$
ここで $\Phi$ は標準正規分布の累積分布関数です。したがって、$|B_T|$ と $M_T$ は同じ分布(半正規分布)を持ちます。
反射原理の直感は次の通りです。ブラウン運動が $a$ に到達した後は、強マルコフ性により「$a$ からの新しいブラウン運動」が始まります。この新しいブラウン運動は対称性から上にも下にも等確率で動くため、$a$ に到達した後 $B_T \geq a$ となる確率はちょうど $1/2$ です。よって、
$$ P(B_T \geq a) = P(M_T \geq a, B_T \geq a) = \frac{1}{2} P(M_T \geq a) $$
から $P(M_T \geq a) = 2P(B_T \geq a)$ が得られます。
対数反復の法則
ブラウン運動が $t \to \infty$ でどのくらい大きくなるかを正確に記述するのが、対数反復の法則(law of the iterated logarithm)です。
定理(対数反復の法則):
$$ \limsup_{t \to \infty} \frac{B_t}{\sqrt{2t \log \log t}} = 1 \quad \text{a.s.} $$
$$ \liminf_{t \to \infty} \frac{B_t}{\sqrt{2t \log \log t}} = -1 \quad \text{a.s.} $$
この結果は、ブラウン運動が $\pm\sqrt{2t \log \log t}$ の「封筒」の中に漸近的に収まることを意味します。$\sqrt{t}$ よりわずかに速いペースで振動し、$\sqrt{2t \log \log t}$ の境界にほぼ到達するが超えないという、極めて精密な漸近的振る舞いを記述しています。
大数の法則が平均的な振る舞いを記述するのに対し、対数反復の法則は極端な値の振る舞いを記述するものであり、確率論の深い結果の一つです。
ブラウン運動から確率解析へ
ここまで学んだブラウン運動の性質を整理し、確率解析への接続を述べておきましょう。
性質の体系
ブラウン運動の性質は大きく3つの側面に分類できます。
経路の正則性: – 連続(a.s.) – 至る所非微分可能(a.s.) – $\alpha < 1/2$ でヘルダー連続 - 有界変動でない(全変動が無限大)
確率的構造: – 独立・正規増分 – マルチンゲール – 強マルコフ性 – 定常増分
スケーリング対称性: – 自己相似性: $B_{ct}/\sqrt{c} \overset{d}{=} B_t$ – 時間反転対称性 – フラクタル次元 $3/2$
伊藤積分への橋渡し
ブラウン運動の2次変分が $[B]_T = T \neq 0$ であるという事実は、確率解析の必要性を直接的に示しています。
なめらかな関数 $g(t)$ に対して $\int_0^T f \, dg$ を定義するリーマン・スティルチェス積分は、$g$ が有界変動であることを前提としています。しかし、ブラウン運動は有界変動ではないため、$\int_0^T f \, dB_t$ をこの方法で定義することはできません。
伊藤は、増分 $dB_t$ のランダム性を活かした新しい積分の定義を構築しました。その中核にあるのが、
$$ (dB_t)^2 = dt, \quad (dB_t)(dt) = 0, \quad (dt)^2 = 0 $$
という計算規則(伊藤のテーブル)であり、これはブラウン運動の2次変分から直接導かれます。
まとめ
本記事では、ブラウン運動(ウィーナー過程)の数学的性質を体系的に解説しました。
- 標本路の連続性: コルモゴロフの連続性定理により、$\alpha < 1/2$ でヘルダー連続
- 至る所非微分可能性: 差分商の分散が $1/h \to \infty$ に発散するため、どの点でも微分不可能
- 自己相似性: 時間を $c$ 倍、空間を $\sqrt{c}$ 倍にスケーリングしても統計的に同じ(フラクタル次元 $3/2$)
- マルチンゲール性: $B_t$, $B_t^2 – t$, 指数マルチンゲール $e^{\theta B_t – \theta^2 t/2}$ がマルチンゲール
- 2次変分: $[B]_T = T$ — 伊藤の公式の根拠であり、$(dB_t)^2 = dt$ の数学的基盤
ブラウン運動の「連続だが至る所微分不可能」という性質は、通常の微積分学の枠組みでは扱えないことを意味し、伊藤積分と確率微分方程式(SDE)という新しい数学の必要性を動機づけます。
次のステップとして、以下の記事も参考にしてください。
- 幾何ブラウン運動と株価モデリング — ブラウン運動の金融への応用
- 伊藤積分の定義と性質 — ブラウン運動に対する積分の定義
- 伊藤の公式の応用 — SDEの求解テクニック