夜空に光る火星と地球の距離は、最も近づいたとき(衝の頃)で約5,600万km、最も離れたとき(合の頃)で約4億km。火星探査ローバー Perseverance がHDカメラで撮った1枚の画像 — 数百MBのデータ — は、この4億kmの真空を渡って地球に届く必要があります。電波の電力は距離の2乗で減衰するので、4億km先からの信号は地球から38,000kmの静止衛星 (GEO) の信号より「20桁」近く弱くなります。それでも探査機は数十〜数百bpsの細々としたデータレートで毎日通信を続けています — どうやって?
この問いに答えるのが深宇宙通信のリンクバジェットです。NASA Deep Space Network (DSN)の70m級巨大アンテナ、極低温で冷やされた低雑音増幅器、シャノン限界に肉薄するCCSDS Turbo符号、そしてコヒーレント受信と狭帯域PLLによる微弱信号追跡 — これら全てを総動員して、人類は45年以上稼働している Voyager 1(地球から250億km以上)からも、ニューホライズンズ(冥王星越え)からもデータを受信し続けています。
深宇宙通信は、地球周回衛星のリンクバジェットの「極限ケース」であり、(1) 自由空間損失が支配的でリンクマージンが極めて薄い、(2) 受信側 (G/T) の設計が運命を握る、(3) 符号化利得が「あるかないか」で通信成立の可否が決まる、という極端な領域です。本記事では、フリスの式から出発し、DSNの構造、距離スケール、極低C/N0でのコヒーレント受信、CCSDS Turbo符号、Voyagerの実例、そして将来の光通信 (DSOC) までを、定量的に追っていきます。
本記事の内容
- 深宇宙通信が「極端に厳しい」理由 — 距離スケールと自由空間損失
- リンクバジェットの基本式の深宇宙バージョン(C/N0で語る理由)
- DSN(70m, 34m BWG)の構造とアレイ化
- G/T品質指数 — 70mアンテナと20K極低温受信機が生み出す数値
- 火星 0.55〜2.5 AU での受信電力変動
- 低C/N0 (5〜20 dB-Hz) でのコヒーレント受信と狭帯域PLL
- 符号化利得とシャノン限界 — CCSDS Turbo R=1/6
- Voyager 1 の現状(X帯, 22.4W, 23 bps)
- 将来の方向性(DSOC光通信, アレイ受信)
前提知識
この記事を読む前に、以下の記事を読んでおくと理解が深まります。
- 衛星通信の基礎 — GEOからLEOコンステレーションまで
- 衛星回線設計 — リンクバジェットの計算と設計マージン
- 熱雑音の理論 — ジョンソン・ナイキスト雑音と等価雑音温度
- シャノン・ハートレーの定理と通信路容量
また、以下の概念に馴染みがあると理解がスムーズです。
- デシベル (dB, dBW, dB-Hz) の定義と加減算
- フリスの伝達公式と自由空間損失 (FSPL)
- 雑音温度とボルツマン定数 $-228.6$ dB(W/Hz/K)
- Eb/N0 と BER の関係(QPSK等の変調方式の必要 Eb/N0)
なぜ深宇宙通信は極端に厳しいか — 距離スケールの感覚
「100倍遠くなると損失40 dB増える」の意味
リンクバジェットを直感的に押さえるとき、最も大事なのは「距離が10倍になれば自由空間損失は20 dB増える」という関係です。これは FSPL $\propto d^2$ から来ています。さらに、距離が100倍 (10×10) になれば 40 dB、1000倍なら 60 dB、といった具合に「距離の桁数」と「dB」が直結します。
地球周回衛星と深宇宙探査機の距離を、この感覚で並べてみましょう。
| 対象 | 距離 | 静止衛星 (GEO, 36,000 km) との比 | 余分なFSPL |
|---|---|---|---|
| LEO (Starlink 550 km) | 550 km | 1/65 | $-36$ dB(楽になる側) |
| GEO 衛星 | 36,000 km | 1 | 基準 |
| 月 | 384,000 km | 約10倍 | $+20$ dB |
| 火星(最近) | 5,600万 km | 約1,500倍 | $+63$ dB |
| 火星(最遠) | 4億 km | 約11,000倍 | $+81$ dB |
| 木星 | 7.8億 km | 約22,000倍 | $+87$ dB |
| 冥王星 (New Horizons遭遇時) | 50億 km | 約14万倍 | $+103$ dB |
| Voyager 1 (2026年) | 240億 km | 約67万倍 | $+117$ dB |
GEO衛星からの信号と Voyager 1 からの信号では、自由空間損失だけで 117 dB、つまり電力比で 5,000億倍 の違いがあります。GEOで使う直径45 cmの家庭用パラボラを単純に当てはめれば、Voyagerの信号は地球周回衛星の信号より5,000億倍も弱いということです。
この差をどこかで埋め合わせる必要があります。
「埋め合わせる」3つの方向性
差を埋める方法は3つしかありません。
- 受信アンテナを巨大化する(受信利得 $G_r$ を上げる)— GEO用 45 cm に対し、DSNは 70 m。直径比 155倍、面積比 24,000倍 ($+44$ dB)
- 受信系の雑音温度を下げる(システム雑音温度 $T_\text{sys}$ を下げる)— 家庭用LNB 120 K に対し、DSNの低温受信機は20 K。約8 dBの改善
- データレートを下げる(雑音帯域幅 $B$ を狭める)— 100 Mbps を 100 bps に下げれば、雑音電力は 60 dB 減る
実際には、これら全てを総動員してもまだ足りないため、最後の切り札として符号化利得(チャネル符号化により必要 Eb/N0 を下げる)を使います。CCSDS Turbo R=1/6 では理論限界に約 0.5 dB まで迫れるため、無符号化BPSKに比べて約9〜10 dBの利得が得られます。
足し算で書けば、$+44$ dB(アンテナ)$+ 8$ dB(雑音温度)$+ 60$ dB(レート低下)$+ 10$ dB(符号化)$= +122$ dB。これでようやくVoyagerの 117 dB 差を埋め、わずかなマージンが残ります。これが「深宇宙通信が辛うじて成立している」具体的な数値感です。
これらの「打つ手」を理解するには、まずリンクバジェットの基本式を深宇宙仕様で書き直す必要があります。
リンクバジェットの基本式 — 深宇宙では C/N より C/N0 で語る
フリスの伝達公式の復習
送信電力 $P_t$、送信アンテナ利得 $G_t$、距離 $d$、波長 $\lambda$ のとき、受信電力 $P_r$ は次のフリスの伝達公式で表されます。
$$ P_r = P_t G_t G_r \left(\frac{\lambda}{4\pi d}\right)^2 $$
ここで $G_r$ は受信アンテナ利得です。$\lambda / (4\pi d)$ の項は「等方放射された電力が距離 $d$ の球面上に散らばる」幾何学的希釈を表します。dB表記すると次のようになります。
$$ P_r \text{[dBW]} = \underbrace{P_t \text{[dBW]} + G_t \text{[dBi]}}_{\text{EIRP}} – L_\text{FSPL} + G_r \text{[dBi]} $$
ここで FSPL は次のとおりです。
$$ L_\text{FSPL} = 20\log_{10}\left(\frac{4\pi d}{\lambda}\right) = 32.44 + 20\log_{10}(d_\text{km}) + 20\log_{10}(f_\text{MHz}) $$
雑音電力スペクトル密度 N0
雑音電力は $N = k_B T_\text{sys} B$ と書けますが、深宇宙では帯域幅 $B$ をデータレートに合わせて自由に設計できる(後述)ため、$B$ で割った雑音電力スペクトル密度 $N_0$ を使うのが自然です。
$$ N_0 = k_B T_\text{sys} \quad [\text{W/Hz}] $$
dB表記では:
$$ N_0 \text{[dBW/Hz]} = -228.6 + 10\log_{10}(T_\text{sys}) $$
たとえば $T_\text{sys} = 20$ K なら、$N_0 = -228.6 + 13.0 = -215.6$ dBW/Hz です。
C/N0 の定義と基本式
C/N0(搬送波電力対雑音電力密度比、単位は dB-Hz)は、受信した信号電力を $N_0$ で割った量です。
$$ \frac{C}{N_0} = \frac{P_r}{N_0} \quad [\text{Hz}] $$
dB表記でリンクバジェット式に展開すると、深宇宙の基本式は次のようになります。
$$ \frac{C}{N_0} \text{[dB-Hz]} = P_t + G_t – L_\text{FSPL} – L_\text{other} + \underbrace{G_r – 10\log_{10}(T_\text{sys})}_{G/T} + 228.6 $$
ここで $G/T$ [dB/K] は受信系の品質指数(後述)です。地上衛星通信では帯域幅 $B$ が固定された C/N で語ることが多いですが、深宇宙では C/N0 で語る理由は2つあります。
- データレートが極端に低く可変: 数十 bps 〜数 Mbps まで運用中に変化させる。雑音帯域幅も追随して変えるため、$B$ を固定した C/N に意味がない
- Eb/N0 への換算が直接: ビットレート $R_b$ に対して $E_b/N_0 = (C/N_0) / R_b$。dB表記では引き算で済む
$$ \frac{E_b}{N_0} \text{[dB]} = \frac{C}{N_0} \text{[dB-Hz]} – 10\log_{10}(R_b) $$
たとえば $C/N_0 = 30$ dB-Hz でレート $R_b = 100$ bps なら $E_b/N_0 = 30 – 20 = 10$ dB。Voyager のように $C/N_0 \approx 16$ dB-Hz で $R_b = 23$ bps($10\log 23 = 13.6$ dB)なら $E_b/N_0 \approx 2.4$ dB という極端な値になります(これでCCSDS符号がギリギリ復号できる)。
リンクバジェットの構造を整理したところで、次にこの式を解く側 — DSNの巨大受信設備 — がどのような構成なのかを見ていきます。
DSNの構成 — 70m, 34m BWG, アレイ化
3つのDSC(Deep Space Communications Complex)
NASA DSNは、地球の自転に対し常に深宇宙探査機を見続けるため、地球上の経度方向に約120度ずつ離れた3か所に通信設備を配置しています。
- Goldstone (米カリフォルニア州): DSS-14 (70m), DSS-24/25/26 (34m BWG)
- Madrid (スペイン): DSS-63 (70m), DSS-54/55/56 (34m BWG)
- Canberra (オーストラリア): DSS-43 (70m), DSS-34/35/36 (34m BWG)
この配置により、地球がどの方向を向いていても少なくとも1つのDSCから探査機が見えます(南半球用のCanberraがVoyagerのような南天の天体に対し特に重要)。
DSS-14 / DSS-43 / DSS-63(70m アンテナ)
70mアンテナは1960年代後半に建造され、当初64mで運用後、ボイジャー1号・2号の外惑星フライバイ(特に1989年Voyager 2の海王星接近)に向けて70mに拡大されました。主な諸元は次のとおりです。
| パラメータ | 値 |
|---|---|
| 開口直径 | 70 m |
| 開口効率 | 約 0.71 (S帯), 0.68 (X帯) |
| 利得(S帯 2.3 GHz) | 約 63 dBi |
| 利得(X帯 8.4 GHz) | 約 74 dBi |
| 利得(Ka帯 32 GHz) | 約 81 dBi(局所改修されたもの) |
| 半値ビーム幅(X帯) | 約 0.038° (137 arcsec) |
| 指向制御精度 | 5 mdeg 以下 |
| システム雑音温度(X帯, 受信) | 約 17〜25 K(指向方向・天候依存) |
X帯(8.4 GHz)でG/T を計算してみます。$G_r = 74$ dBi、$T_\text{sys} = 25$ K なら:
$$ G/T = 74 – 10\log_{10}(25) = 74 – 14.0 = 60.0 \text{ dB/K} $$
家庭用BSアンテナ(45cm, $G/T \approx 12$ dB/K)に比べて 48 dB(電力比で約63,000倍) 優れた受信性能です。この値は地上の衛星通信局では決して達成できず、深宇宙通信の最大の武器となります。
70mアンテナの半値ビーム幅 0.038° は、東京から京都(約400km)に置かれた直径26cmの円を指す精度に相当します。深宇宙探査機の地球からの見かけ角速度は遅いため、この狭ビームでも追尾は十分可能です。
34m BWG(Beam Waveguide)アンテナ
70mが計画稼働の主役である一方、現在運用されている主力は 34m Beam Waveguide (BWG) アンテナです。70mより 6 dB ほど利得が低い ($\sim 68$ dBi @X帯) ですが、以下の利点があります。
- 複数バンド同時運用: 主鏡で集光された電波を鏡面リレーで地下の温度安定室に導き、そこに複数の受信機を並置できる(S/X/Ka を同時運用可能)
- メンテナンス容易性: 受信機が地上設備内にあるため極低温冷却装置の保守がしやすい
- 追尾性能: 機械が新しく追尾精度が高い
DSNアレイ化(Array Receive)
1基の70mでも電波が弱すぎる場合、複数のアンテナ出力を位相同期で合成(アレイ化)して実効的な開口を増やせます。たとえば DSS-14 (70m) と DSS-24/25/26 (34m×3) の同時受信を合成すれば、実効開口は次のようになります。
$$ A_\text{eff} = A_{70m} + 3 \times A_{34m} = \pi (35)^2 + 3 \times \pi (17)^2 \approx 3848 + 2724 = 6572 \text{ m}^2 $$
これは単体の70m ($A \approx 3848$ m²) に対し約 1.7倍、利得にして 約 +2.3 dB の改善です。Voyager 2 の海王星フライバイ (1989年) では、DSN + オーストラリアParkes 64m + VLA (Very Large Array, 27×25m) のアレイ化により実効利得を約 +5 dB 押し上げ、海王星画像の伝送を可能にしました。
巨大アンテナと極低温受信機の組み合わせが「埋め合わせ」の主要な手段だと分かったところで、次に G/T 品質指数を一段詳しく掘り下げます。
G/T品質指数 — アンテナと雑音温度のトレードオフ
G/T が「単一の数値」で受信性能を語れる理由
リンクバジェット式を再掲します。
$$ \frac{C}{N_0} = P_t + G_t – L_\text{FSPL} – L_\text{other} + (G_r – 10\log_{10}T_\text{sys}) + 228.6 $$
ここで $G_r$ と $T_\text{sys}$ は受信側の物理量ですが、$C/N_0$ には常に両者の差 (dB引き算) としてしか登場しません。つまり、アンテナを大型化して $G_r$ を 3 dB 増やすことと、受信機を冷やして $T_\text{sys}$ を半分にすること(10log で 3 dB 減)は、受信性能の観点で等価です。
この事実が、受信系をただ一つの数値 $G/T$ で評価できる根拠です。
$$ \frac{G}{T} \text{[dB/K]} = G_r \text{[dBi]} – 10\log_{10}(T_\text{sys}\text{[K]}) $$
各 DSN 設備の G/T
X帯(8.4 GHz)受信での代表値を表にまとめます。
| 設備 | 直径 | $G_r$ [dBi] | $T_\text{sys}$ [K] | $G/T$ [dB/K] |
|---|---|---|---|---|
| 家庭用BS (45cm) | 0.45 m | 33 | 120 | 12.2 |
| 大型VSAT (3 m) | 3 m | 50 | 80 | 31.0 |
| INTELSAT地上局 (15 m) | 15 m | 63 | 60 | 45.2 |
| DSN 34m BWG | 34 m | 68 | 25 | 54.0 |
| DSN 70m | 70 m | 74 | 20 | 61.0 |
| DSN 70m アレイ (+34m×3) | — | 76.3 | 21 | 63.0 |
地上衛星通信の最高峰 (INTELSAT地上局 45 dB/K) と比べても、DSN 70m は +16 dB 上、つまり40倍以上の受信性能を持ちます。
システム雑音温度 $T_\text{sys}$ の内訳
DSN 70m のX帯受信における $T_\text{sys} \approx 20$ K がどう構成されているかを分解してみましょう。
$$ T_\text{sys} = T_\text{CMB} + T_\text{atm} + T_\text{spill} + T_\text{LNA} + T_\text{cable} + \cdots $$
| 雑音源 | 寄与温度 [K] | 説明 |
|---|---|---|
| 宇宙背景放射 (CMB) | 2.7 | 不可避の物理限界 |
| 大気熱雑音(X帯, 晴天, 高仰角) | 2 | 雨天時はずっと増える |
| サイドローブ → 地面 (spillover) | 3 | 主ビームを地面が「見ない」設計でも漏れがある |
| LNA(超低温冷却型, X帯 HEMT) | 8 | 約 4 K まで冷やしたヘリウムガス冷却 |
| 導波管・伝送線損失 | 3 | フィーダ前段の損失 |
| 後段受信機(フリスの公式で換算) | 2 | LNAの利得で割られて十分小さい |
| 合計 | 約 20 |
LNAは HEMT (High Electron Mobility Transistor) または SIS (Superconductor-Insulator-Superconductor) 接合を用い、4〜15 K の超低温で動作させます。これにより雑音温度を地上の室温受信機(300 K)の30倍以下にまで下げます。
「もう下げられない」物理限界
$T_\text{sys}$ には下限があります。CMBの 2.7 K と大気の数K(高仰角・晴天時)は地上から避けようがありません。さらにLNAの量子雑音限界は $T_\text{quantum} = hf / k_B$ で与えられ、X帯(8.4 GHz)では約 0.4 K です。
合計すると、地上での実用的 $T_\text{sys}$ 下限は約 15〜18 K と考えられ、DSN 70m はすでにこの限界に肉薄しています。これ以上 G/T を改善するには、アンテナを大型化(または地球外に置く)か、周波数を上げて回折限界を改善するしかありません。
G/T の限界が見えたところで、次に「実際の運用」で問題になる距離変動とリンクマージンの推移を見ていきます。
距離変化 — 火星 0.55〜2.5 AU で受信電力はどう変わるか
火星と地球の距離スケール
火星と地球はそれぞれ太陽の周りを公転しており、相対距離は会合周期(約780日 = 約2.14年)で大きく変動します。
- 最接近(衝): 約 0.37〜0.68 AU(5,600万〜1億km)。会合周期ごとに値が変わる(火星軌道の離心率が大きいため)
- 最遠(合): 約 2.42〜2.67 AU(3.6億〜4億km)
ここで 1 AU = $1.496 \times 10^8$ km ≈ 1.5億km は地球の軌道半径です。$d \in [0.55, 2.5]$ AU のレンジで、FSPL は次のように変動します(X帯 8.4 GHz)。
$$ L_\text{FSPL} = 32.44 + 20\log_{10}(d_\text{km}) + 20\log_{10}(8400) $$
$d = 0.55$ AU ($8.2 \times 10^7$ km) のとき: $L_\text{FSPL} = 32.44 + 158.3 + 78.5 = 269.2$ dB $d = 2.5$ AU ($3.7 \times 10^8$ km) のとき: $L_\text{FSPL} = 32.44 + 171.4 + 78.5 = 282.3$ dB
つまり、近地点と遠地点で FSPL は 約 13 dB 変動します。電力比で約20倍。同じ送信電力でも、火星探査機からの受信電力は会合周期で20倍変動するわけです。
データレートを距離に合わせて変える
これは運用上重大な問題ですが、対処法はシンプルです — データレートを距離に合わせて変える。リンクバジェット式から、受信される $C/N_0$ は距離が増えると下がりますが、ビットあたりエネルギー $E_b/N_0 = (C/N_0) – 10\log_{10}(R_b)$ を一定に保つには、$R_b$ を $1/d^2$ で減らせばよいのです。
火星探査機の典型的なX帯ダウンリンクレートは次のようになります。
| 距離 | FSPL [dB] | 典型的レート(Mars Reconnaissance Orbiter) |
|---|---|---|
| 0.5 AU (近) | 269 | 約 6 Mbps |
| 1.0 AU | 275 | 約 1.5 Mbps |
| 1.5 AU | 278 | 約 0.7 Mbps |
| 2.0 AU | 281 | 約 0.4 Mbps |
| 2.5 AU (遠) | 282 | 約 0.3 Mbps |
火星会合周期で約20倍スループットが変動するため、火星ローバーのHDカメラデータは「近い時期にまとめて送る」運用が基本です。
Pythonで距離変化のリンクバジェットを可視化
ここまでの議論を可視化してみます。MRO型の探査機を想定し、距離変化に対する $C/N_0$ と達成可能なデータレートを計算します。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
# 物理定数
c = 3e8 # 光速 [m/s]
kB_dB = -228.6 # ボルツマン dB(W/Hz/K)
AU = 1.496e8 # km
# 探査機・地上局パラメータ(MRO型, X帯ダウンリンク)
P_t_dbw = 13.0 # 送信電力 20 W → 13 dBW
G_t_dbi = 47.0 # 探査機 3m HGAアンテナ X帯
f_ghz = 8.4 # X帯
G_r_dbi = 74.0 # DSN 70m X帯
T_sys = 20.0 # K(晴天時)
L_other = 2.5 # その他損失(指向, 偏波, 大気, 等)[dB]
GT = G_r_dbi - 10*np.log10(T_sys)
# 必要 Eb/N0(CCSDS Turbo R=1/6 で BER=1e-6 を達成: 約 0.5 dB + 実装マージン 1 dB)
Eb_N0_req = 1.5
# 距離スイープ(0.4 AU 〜 2.6 AU)
d_au = np.linspace(0.4, 2.6, 200)
d_km = d_au * AU
# FSPL
fspl = 32.44 + 20*np.log10(d_km) + 20*np.log10(f_ghz*1e3)
# C/N0
CN0 = P_t_dbw + G_t_dbi - fspl - L_other + GT - kB_dB
# 達成可能データレート [bps]
R_dB = CN0 - Eb_N0_req
R_bps = 10**(R_dB/10)
# 可視化
fig, axes = plt.subplots(1, 2, figsize=(13, 5))
axes[0].plot(d_au, CN0, 'b-', linewidth=2)
axes[0].axhline(15, color='red', linestyle='--', alpha=0.6, label='Voyager-class (15 dB-Hz)')
axes[0].set_xlabel('Mars-Earth Distance [AU]', fontsize=11)
axes[0].set_ylabel('C/N0 [dB-Hz]', fontsize=11)
axes[0].set_title('Received C/N0 vs Distance (MRO-class, X-band)', fontsize=12)
axes[0].legend(fontsize=10)
axes[0].grid(True, alpha=0.3)
axes[1].semilogy(d_au, R_bps/1e3, 'g-', linewidth=2)
axes[1].axhline(6000, color='gray', linestyle=':', label='6 Mbps (near)')
axes[1].axhline(300, color='gray', linestyle=':', label='300 kbps (far)')
axes[1].set_xlabel('Mars-Earth Distance [AU]', fontsize=11)
axes[1].set_ylabel('Achievable Data Rate [kbps]', fontsize=11)
axes[1].set_title('Data Rate vs Distance', fontsize=12)
axes[1].legend(fontsize=10)
axes[1].grid(True, alpha=0.3)
plt.tight_layout()
plt.savefig('mars_link_budget.png', dpi=150, bbox_inches='tight')
plt.show()
# 代表距離での値
for d in [0.5, 1.0, 1.5, 2.0, 2.5]:
d_k = d * AU
f = 32.44 + 20*np.log10(d_k) + 20*np.log10(f_ghz*1e3)
cn0 = P_t_dbw + G_t_dbi - f - L_other + GT - kB_dB
r = 10**((cn0 - Eb_N0_req)/10)
print(f"d = {d:.1f} AU: FSPL = {f:.1f} dB, C/N0 = {cn0:.1f} dB-Hz, R = {r/1e6:.2f} Mbps")
このグラフから2つの重要な特徴が読み取れます。
- 距離 0.5 AU から 2.5 AU まで、C/N0 が約 13 dB 変動する — FSPL の $d^2$ 依存性から予測される通りで、近点と遠点で受信電力に20倍の差が生まれます。この変動を吸収するためにデータレートを可変にするのが深宇宙運用の基本戦術です。
- 達成可能なデータレートは距離に対しほぼ1次関係で対数スケールで減少 — 近点で約 6 Mbps、遠点で約 0.3 Mbps 程度となり、これは実際のMROの運用レートとほぼ一致します。理論計算(フリスの式 + G/T + 符号化利得)だけで実運用値が再現できることが、リンクバジェット工学の威力を示しています。
ここまでで「ハードウェアでどこまで稼げるか」が見えたところで、次は「信号処理でどこまで稼げるか」 — 極低 C/N0 でのコヒーレント受信の話に入ります。
低C/N0でのコヒーレント受信 — 5〜20 dB-Hz で生き残る
コヒーレント受信が必須な理由
C/N0 が 5〜20 dB-Hz というのは、雑音電力スペクトル密度に対し信号が「3〜100倍」しかない極めて微弱な状態です。1 Hz 帯域で測ると C/N がたった 5〜20 dB しかない、というレベルです。
このような状況で位相情報を保持して復調するコヒーレント受信を成立させるには、受信機のローカル発振器(NCO)が信号の搬送波位相に正確に追従する必要があります。これを担うのが位相同期ループ (PLL) です。
しかし、PLL のループ帯域 $B_L$ を狭めると追従できる位相変動が遅くなる一方、雑音による位相揺らぎ(位相ジッタ)は減ります。深宇宙では C/N0 が低いため、$B_L$ を極端に狭く取らないと PLL がロックを維持できません。
PLL ループ帯域とロック維持条件
線形PLLにおける位相ジッタ分散は次のように書けます。
$$ \sigma_\phi^2 = \frac{B_L}{C/N_0} $$
ここで $C/N_0$ は線形値(dBではない)で、Hz単位。PLL がロックを維持できる経験則は $\sigma_\phi^2 \lesssim 0.15$ rad²(約 22°² rms)です。これより:
$$ B_L \leq 0.15 \cdot (C/N_0) $$
たとえば C/N0 = 15 dB-Hz ($= 10^{1.5} = 31.6$ Hz) のとき、許容ループ帯域は $B_L \leq 4.7$ Hz。Voyager 級では $B_L = 0.5 \sim 1$ Hz の極狭ループが使われます。
ここで問題になるのは、$B_L$ をこれほど狭くすると PLL の追従できる位相変動速度 も同じく狭くなることです。深宇宙ではドップラー周波数変動が $\sim$ Hz/s のオーダーで生じるため、PLL の動的応答性能と雑音性能のトレードオフが極めて厳しくなります。
DSN の対応策
DSN ではこの困難に対し、以下の高度な信号処理を導入しています。
- アラインドコヒーレント (2-way coherent) モード: 地上局からアップリンクで送る基準信号 (carrier) を探査機がトランスポンダで位相同期して折り返す。これにより地上での位相追跡が「往復ドップラー」の予測値で大幅に補助される
- 広帯域→狭帯域の段階的ロック: 最初はループ帯域を 50〜100 Hz 程度の広帯域で粗探索しロックさせ、ロック後に段階的に $B_L$ を 1 Hz 以下まで絞る
- オープンループ記録 + オフライン処理: 信号をベースバンド I/Q 信号としてそのまま記録し、後段でドップラー予測値を使ってオフラインで位相再構築する(Galileo探査機のHGA故障時に低利得アンテナで通信を維持できたのはこれによる)
- キャリア抑圧分(power sharing)の最適化: 残留搬送波電力とデータ電力の比を最適化し、PLL ロック維持と復号性能のバランスを取る
これら全てを総動員して、DSN は実用的に C/N0 = 10 dB-Hz 程度までコヒーレント受信を成立させています。
Pythonで PLL ループ帯域と位相ジッタを可視化
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
# C/N0 範囲(dB-Hz)
cn0_db = np.linspace(0, 40, 200)
cn0_lin = 10**(cn0_db/10)
# PLL ロック維持条件: sigma_phi^2 = B_L / (C/N0) <= 0.15
B_L_max = 0.15 * cn0_lin # [Hz]
# 異なる固定 B_L での位相ジッタ
B_L_values = [0.5, 1.0, 5.0, 10.0, 50.0] # Hz
fig, axes = plt.subplots(1, 2, figsize=(13, 5))
axes[0].semilogy(cn0_db, B_L_max, 'b-', linewidth=2.5)
axes[0].axvline(15, color='red', linestyle='--', alpha=0.6, label='Voyager-class (15 dB-Hz)')
axes[0].axvline(30, color='green', linestyle='--', alpha=0.6, label='Mars MRO (30 dB-Hz)')
axes[0].set_xlabel('C/N0 [dB-Hz]', fontsize=11)
axes[0].set_ylabel('Max PLL Loop Bandwidth $B_L$ [Hz]', fontsize=11)
axes[0].set_title('PLL Lock Threshold ($\sigma_\phi^2 \\leq 0.15$ rad$^2$)', fontsize=12)
axes[0].legend(fontsize=10)
axes[0].grid(True, alpha=0.3, which='both')
for B_L in B_L_values:
sigma_deg = np.sqrt(B_L / cn0_lin) * 180/np.pi
axes[1].semilogy(cn0_db, sigma_deg, linewidth=2, label=f'$B_L$ = {B_L} Hz')
axes[1].axhline(22, color='red', linestyle='--', alpha=0.6, label='Lock threshold (22°)')
axes[1].set_xlabel('C/N0 [dB-Hz]', fontsize=11)
axes[1].set_ylabel('Phase Jitter $\sigma_\phi$ [deg]', fontsize=11)
axes[1].set_title('Phase Jitter vs C/N0 for Various $B_L$', fontsize=12)
axes[1].legend(fontsize=9)
axes[1].grid(True, alpha=0.3, which='both')
axes[1].set_ylim([0.5, 200])
plt.tight_layout()
plt.savefig('deep_space_pll.png', dpi=150, bbox_inches='tight')
plt.show()
このグラフから、深宇宙 PLL の設計トレードオフが定量的に分かります。
- 左図: C/N0 = 15 dB-Hz(Voyager級)では PLL ループ帯域を約 4.7 Hz 以下に絞らないとロックを失う。一方、C/N0 = 30 dB-Hz(火星近接時)では 470 Hz の広帯域 PLL が使え、ドップラー変動への追従が容易になる。距離が遠くなるほど PLL の動的応答が悪化することが本質的な制約です。
- 右図: ループ帯域を狭くすると位相ジッタは減るが、ある $C/N_0$ を下回ると 22° の経験的ロック閾値を超えてしまう。Voyager級の C/N0 では $B_L = 0.5$〜1 Hz というほぼ「定常値」しか追跡できない PLL を運用していることが読み取れます。
これでハードウェアと信号処理の両面の打ち手が出揃いました。残るのは「シャノン限界にどこまで近づけるか」 — 符号化利得の話です。
符号化利得とシャノン限界 — CCSDS Turbo R=1/6
シャノン限界の復習
シャノン・ハートレーの定理は、AWGN(加法的白色ガウス雑音)チャネルにおける誤りなく伝送可能な最大ビットレート(チャネル容量)を与えます。
$$ C = B \log_2\left(1 + \frac{S}{N}\right) $$
この式を $E_b/N_0$ について解くと、無限帯域・無限大の符号化遅延を許した極限で次の値が得られます。
$$ \left(\frac{E_b}{N_0}\right)_{\min} = \ln 2 \approx 0.693 \quad \text{(線形)} $$
dB で書くと:
$$ \left(\frac{E_b}{N_0}\right)_{\min} = 10\log_{10}(0.693) \approx -1.59 \text{ dB} $$
これがシャノン限界であり、「これより低い $E_b/N_0$ では、どんな符号化を使ってもエラーフリー伝送は不可能」という究極の物理限界です。
無符号化との比較
無符号化のBPSK/QPSKで BER = $10^{-6}$ を達成するには、$E_b/N_0 \approx 10.5$ dB が必要です。シャノン限界 $-1.59$ dB との差は 約 12 dB — この「ギャップ」が符号化で稼ぐ余地です。
理論限界に近づくほど大きな符号化利得が得られますが、復号の計算量と遅延が膨大になります。深宇宙通信で使われる主要な符号と、それぞれの限界からの「ギャップ」を比較します。
| 符号方式 | 必要 $E_b/N_0$ @ BER=$10^{-6}$ | シャノン限界からの差 |
|---|---|---|
| 無符号化 BPSK | 10.5 dB | 12.1 dB |
| 畳み込み符号 (k=7, R=1/2) Viterbi 復号 | 4.5 dB | 6.1 dB |
| Voyager コンカテネート (RS+畳み込み) | 2.5 dB | 4.1 dB |
| LDPC (R=1/2) | 1.0 dB | 2.6 dB |
| CCSDS Turbo (R=1/2) | 0.7 dB | 2.3 dB |
| CCSDS Turbo (R=1/6) | $-0.4$ dB | 約 1.2 dB |
R=1/6 ターボ符号は実用符号として シャノン限界に 1.2 dB まで肉薄しており、深宇宙通信の極低 SNR 領域で最も適した符号です。
R=1/6 が深宇宙で選ばれる理由
「符号化率 R を下げる(= 冗長度を上げる)」と必要 $E_b/N_0$ は下がりますが、同じ情報レート $R_b$ を伝送するための帯域幅が増えます。地上の衛星通信では帯域が貴重な資源なので、R=1/2 や R=3/4 など高レートが選ばれます。
しかし深宇宙では:
- 帯域は事実上無制限(DSNが割り当てられた数十 MHz 帯域に対し、データレートは数十 bps〜数 Mbps)
- 電力は極めて貴重(探査機のRTGが供給する数百Wから、X帯HGAに割けるのは 20〜100W)
このため、R を低くして電力効率を最大化する戦略が合理的になります。R=1/6 では情報1ビットを送るのに6ビットの符号ビットを使う「贅沢」な符号ですが、無符号化BPSKに比べて 必要 $E_b/N_0$ が約 11 dB 低い、つまり11倍の電力削減 (または同じ電力で約10倍の距離) に相当します。
Pythonで符号化利得を可視化
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
from scipy.special import erfc
# Q関数
def Q(x):
return 0.5 * erfc(x / np.sqrt(2))
# Eb/N0 範囲 [dB]
EbN0_dB = np.linspace(-2, 12, 300)
EbN0_lin = 10**(EbN0_dB/10)
# 無符号化BPSK
BER_BPSK = Q(np.sqrt(2 * EbN0_lin))
# 畳み込み符号(k=7,R=1/2,Viterbi): asymptotic approximation
# Eb/N0 が約 5 dB で BER=1e-6 達成
BER_conv = Q(np.sqrt(2 * 10 * EbN0_lin)) # 約10dB等価利得
# CCSDS Turbo (R=1/6): BER vs Eb/N0 (近似的"waterfall")
# 実測曲線の近似: -0.5 dB近傍で急峻に立下がる
EbN0_turbo = np.array([-1.0, -0.5, 0.0, 0.3, 0.5, 0.7, 1.0, 1.5])
BER_turbo_data = np.array([3e-1, 1e-1, 1e-2, 1e-4, 1e-5, 1e-6, 1e-7, 1e-9])
fig, ax = plt.subplots(figsize=(10, 6))
ax.semilogy(EbN0_dB, BER_BPSK, 'b-', linewidth=2, label='Uncoded BPSK')
ax.semilogy(EbN0_dB, np.clip(BER_conv, 1e-12, 1), 'g--', linewidth=2,
label='Convolutional (k=7, R=1/2)')
ax.semilogy(EbN0_turbo, BER_turbo_data, 'r-o', linewidth=2.5,
label='CCSDS Turbo R=1/6 (deep space)')
# シャノン限界
ax.axvline(-1.59, color='black', linestyle=':', linewidth=2, alpha=0.7,
label='Shannon limit (-1.59 dB)')
ax.axhline(1e-6, color='gray', linestyle=':', alpha=0.5)
ax.text(8, 1.5e-6, 'BER = 1e-6', fontsize=9, color='gray')
ax.set_xlabel('$E_b/N_0$ [dB]', fontsize=12)
ax.set_ylabel('Bit Error Rate', fontsize=12)
ax.set_title('Coding Gain Comparison for Deep Space Communication', fontsize=13)
ax.legend(fontsize=10, loc='lower left')
ax.grid(True, alpha=0.3, which='both')
ax.set_ylim([1e-9, 1])
ax.set_xlim([-2, 12])
plt.tight_layout()
plt.savefig('coding_gain.png', dpi=150, bbox_inches='tight')
plt.show()
このBERカーブから3つの重要な点が読み取れます。
- シャノン限界の意味が直感的に分かる: 縦の破線 ($-1.59$ dB) はどんなBERカーブも左に越えられない物理限界。CCSDS Turbo R=1/6 はこの限界の約 1.2 dB 右側まで肉薄しています。
- 「ウォーターフォール」と呼ばれる急峻な立ち下がり: ターボ符号は閾値 ($E_b/N_0 \approx 0$ dB) 付近で BER が 3桁/0.5 dB という急激な改善を示します。これは「閾値さえ越えればほぼエラーフリー」を意味し、深宇宙のような低 SNR で運用する際の安全マージンの考え方を変えます — 1〜2 dB のマージンで十分。
- 無符号化BPSKは絶望的: 同じ BER=$10^{-6}$ を達成するのに、無符号化は 10.5 dB、CCSDS Turbo R=1/6 は $-0.5$ dB、差は 11 dB。送信電力を 1/12.5 にできる、あるいは同じ電力で距離を約3倍に伸ばせます。
理論武装は完成しました。最後にこれらの全ての要素が結集した「実在の極限」 — Voyager 1 の現状リンクバジェットを組み立てましょう。
Voyager の現状 — 250億km先からの 22.4W
ミッション概要
Voyager 1 は 1977年9月5日に打ち上げられ、木星・土星のフライバイを経て、2012年8月25日に太陽圏ヘリオポーズを越え、現在は星間空間を航行する人類初の人工物となっています。
- 打上げ: 1977-09-05
- 質量: 825 kg(うちRTGとペイロード)
- 電源: RTG (Radioisotope Thermoelectric Generator) — 打ち上げ時 470 W、2026年現在 約 240 W(プルトニウム238の半減期 87.7 年)
- 送信機(X帯): TWTA 出力 22.4 W (13.5 dBW)
- 送信アンテナ: 直径 3.7 m HGA (High Gain Antenna), X帯利得 約 47.7 dBi
- EIRP: 13.5 + 47.7 = 61.2 dBW(家庭用懐中電灯1個分の電力を強烈に集中)
距離とFSPL(2026年時点)
Voyager 1 は2026年で太陽から約 165 AU(約 247億 km)離れています。X帯(8.4 GHz)の FSPL は:
$$ L_\text{FSPL} = 32.44 + 20\log_{10}(2.47 \times 10^{10}) + 20\log_{10}(8400) = 32.44 + 207.9 + 78.5 = 318.8 \text{ dB} $$
318.8 dB という値は天文学的な損失です — 真数では $10^{31.88} \approx 7.5 \times 10^{31}$、つまり信号は送信時の 1兆倍の1兆倍の1兆倍 ほど弱まって地球に届きます。
Voyager 1 リンクバジェット(X帯 ダウンリンク, 2026年)
DSN 70m での受信を仮定して、全項目を積み上げます。
| 項目 | 値 [dB] | 説明 |
|---|---|---|
| 送信電力 $P_t$ | $+13.5$ | 22.4 W = 13.5 dBW |
| 送信アンテナ利得 $G_t$ | $+47.7$ | 3.7m HGA X帯 |
| EIRP | $+61.2$ | |
| 自由空間損失 $L_\text{FSPL}$ | $-318.8$ | 165 AU, 8.4 GHz |
| 大気・指向・偏波損失 $L_\text{other}$ | $-2.0$ | 高仰角・晴天時 |
| 受信アンテナ利得 $G_r$ | $+74.0$ | DSN 70m X帯 |
| システム雑音温度 $T_\text{sys}$ | $-13.0$ | 20 K → $10\log_{10}(20)$ |
| G/T | $+61.0$ | |
| ボルツマン定数 $-k_B$ | $+228.6$ | $-10\log_{10}(1.38\times 10^{-23})$ |
| 受信 C/N0 | $+29.0 – 38.4$ + ? | 単純な収支 |
整理すると:
$$ \frac{C}{N_0} = 61.2 – 318.8 – 2.0 + 61.0 + 228.6 = 30.0 \text{ dB-Hz} $$
おや、$30$ dB-Hz というのは意外に「マシ」な値です。これは Voyager 1 の HGA を地球に正確に向けている、晴天高仰角、DSN 70m の最良値という条件での理論限界です。実運用では追加のマージン消費があり、現在は C/N0 ≈ 15〜18 dB-Hz で運用されています。
達成可能データレート
CCSDS Turbo R=1/6 で要求される $E_b/N_0$ は約 0.5 dB(実装マージン込みで 1.5 dB とする)。これを実運用 C/N0 = 16 dB-Hz に当てはめると:
$$ R_b = 10^{(16 – 1.5)/10} = 10^{1.45} \approx 28 \text{ bps} $$
実際の Voyager 1 の現運用レートは 約 23 bps(160 bps を出していた時代から段階的に下げられた)— 上記の理論計算とほぼ一致します。
23 bps というレートが意味するもの
23 bps は、1分間で約 1,400 ビット、つまり 約 170 バイト しか伝送できないレートです。1枚の小さなJPEG画像(10 KB)を送るのに約 1時間。Voyager 1 の科学観測機器が生成するデータ(磁場・荷電粒子・プラズマ波)は、この極細パイプを通して断続的に降ろされています。
それでも、人類は1977年に打ち上げた探査機から、2026年現在も毎日データを受け取り続けています。これは送信電力 22.4 W(家庭の電球の1/3)と DSN 70m アンテナの組み合わせ、そして CCSDS Turbo 符号、極低温受信機、コヒーレント受信、$1/d^2$ に従うレート調整 — このリンクバジェット工学が「動いている」ことの何よりの証拠です。
Voyager の話で深宇宙通信の現在地が見えたところで、最後に「次は何ができるか」 — 将来の方向性を見ていきます。
まとめと将来 — 光通信 DSOC とアレイ受信
本記事では、深宇宙通信のリンクバジェットを以下の観点から体系的に解説しました。
- 距離スケール: 火星 (0.5〜2.5 AU) で FSPL 13 dB 変動、Voyager (165 AU) で 320 dB に達する。地球周回衛星より 50〜120 dB 余分な損失を埋めねばならない
- C/N0 で語る理由: データレートが極端に低く可変なため、帯域固定の C/N より $C/N_0 = C – 10\log_{10}(N_0)$ が自然
- DSN の構造: 70m, 34m BWG, 経度方向3か所配置で連続可視性を確保。アレイ化で実効開口をさらに拡大
- G/T: DSN 70m X帯で約 61 dB/K — 家庭用BSの 12 dB/K に対し 49 dB 優位
- 低 C/N0 PLL: $B_L \leq 0.15 \cdot (C/N_0)$ により、C/N0=15 dB-Hz では $B_L \approx 5$ Hz の極狭ループ
- 符号化利得: CCSDS Turbo R=1/6 でシャノン限界に 1.2 dB まで肉薄。無符号化BPSKに比べ約 11 dB 改善
- Voyager 1 実例: EIRP 61 dBW + G/T 61 dB/K + 符号化 11 dB → 23 bps での運用が成立する数値根拠
将来の方向性: 光通信 DSOC
NASAは2023年、Psyche探査機に搭載された DSOC (Deep Space Optical Communications) で、地球から 3.1 億 km 離れた地点から 267 Mbps のレーザー通信に成功しました。これは同じ距離での電波通信 (X帯) より 約100倍 高いレートです。
光通信の優位性はリンクバジェットの式から直接見えます。アンテナ利得は $G \propto (D/\lambda)^2$ なので、波長を X帯 36 mm から光 1.55 μm に変えれば(波長比 23,000倍)、同じ口径で 利得が +93 dB 改善します。実際には光学送信機の口径は電波より小さいですが、それでも +30〜50 dB の改善は容易です。
ただし課題も多く、(1) 0.001° 級の精密指向制御、(2) 雲・天候による完全遮断、(3) 太陽近傍での散乱光対策、(4) 地上受信局の数が DSN 級で必要、など多くの未解決問題があります。当面は X/Ka帯による電波通信を主軸に、光通信を補完的に使うハイブリッド運用が現実的です。
将来の方向性: 受信アレイ拡張
DSNはすでにアレイ化を実用化していますが、SKA (Square Kilometre Array, 1平方キロメートルの実効開口)規模の受信網を深宇宙通信に転用する研究が進んでいます。実効 G/T を +10 dB 増やせれば、Voyager 1 のデータレートを 23 bps から 230 bps に増やせます。
人類が今後、火星有人探査、外惑星サンプルリターン、星間探査機 (Breakthrough Starshot 等) を実施する上で、深宇宙通信のリンクバジェット工学は最も基礎的でかつ最も決定的な「制約条件」であり続けるでしょう。22.4 W から 22 億 km を生き残った Voyager の細い細い電波の声は、その奥深さを今も私たちに教え続けています。
次のステップとして、以下の記事も参考にしてください。